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2009年10月 3日 (土)

ら・りゅぬ…であ・もんと…

バレンボイム/サイード 音楽と社会  A.グゼリミアン編  みすず書房

 うーん…この本に関しては一言でまとめるのは難しいとしか言いよーがないよーな?タイトルは音楽と社会とゆー漠然としたものですが、これは原題のままパラレルとパラドクスの方が合っているよな?いえ、全体的に見れば二人の巨人が音楽の話をしているだけなんですけど、その音楽が真に深い…対談している二人については今更説明をしよーもないほど有名人なので、その背景はこれまた今更なんですが東と西なのか、北と南なのか、陸と海なのか、水と油なのか…ただ会話文ですので、頭痛くなるよーな漢字のオンパレードではなくて平易な文体です。出来れば大学一年生の副読本にどーかなぁと思います、もっと出来れば中学生位で読んでみると世界観が少し(もっと?)変わるかもしれません(笑)

 話は音楽が中心なんですけど、こー生活というか、社会が普通に絡んできます。フルトヴェンクラーの話も出てくればブーレーズもあり、ベートヴェンもモーツァルトもワーグナーもお題に上るのでござるよ(笑)一方、「世界は大企業と資本によって支配されている。政治家は究極のところ影響力をもっておらず、そのことに対する過剰補償として人前で自信のあるところを見せびらかすのだと思う」(ばーいバレンボイム)とあったりするんですよ(笑)更にワーグナー論で面と向かって「君はユダヤ人だし、言わずもがなたが僕はバレスチナ人なのだから」と言い切れるサイードもスゲェとしか言い様がないよーな…

 アリス的には実はグールドについてで引っかかったのですが、バレンボイムとサイードではグールドに対する評価は違うみたいです。「ある意味で、グレン・グールドはすぐに先が読める。僕がどんなに彼を賞賛しているかは知っているだろう。それでも指摘しておきたいのは、彼には「グレン・グールド流」というものがあり、それは再現が可能なものだということだ-他の人にはできなくても、本人にはできる」「グレン・グールドによるバッハの演奏について僕が感銘を受けることの一つは、純粋に聴覚的な経験の他に、そこには一種の主張があるということだ。それがどんな主張なのかを口で説明することはできないのだけれど」(ばーいサイード)これが全てさの世界のよな(笑)

 とにかくどこを切り取っても今日の一言になりそーな会話なんですが、その中でもバレンボイムの「指揮者になろうと決めたその日から、人に好かれたいという自然な本能は捨てなければならない。何か個人の主張をしようとすればそのとたん、一部の人々とは調和するが、他の人たちとは不協和音を奏でることになるのは当然だ。物議をかもすことがないのは平凡な意見だけだと思う。だが、今日の世界では「物議をかもす」というのはほとんど悪口に近くなっている」でしょーかねぇ…いえ、指揮者のとこを犯罪社会学者に置き換えても可能かな、なななと(笑)

 目次参照  目次  目次-書籍

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