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2012年2月12日 (日)

いつでもそうだとは限りませんよ?

日本語はどういう言語か  三浦つとむ  講談社

 何の本かというとタイトル通り、なんだろぉーなぁ?非常に平易で、そして難しい本のよな?お題は日本語で、日本人なら空気や水のごとく身についている話だけれど、それをマジ俎上に載せるとしたら、一筋縄ではいかんぜよ、の世界が展開…日本語って複雑怪奇から、日本語ってとっても単純まで揺り幅大きくて、どこに足を置くかで本書の評価も変わるよな?何とゆーか、主観とは何ぞや?普遍とは何ぞや?に近いかも?貴方の鏡は良い鏡とか(笑)

 一読で理解できているのか?いないのか?そこが問題だなんですけど、まぁ何とゆーか、引っかかるところはたくさんあって、例えば「誰でも、毎日の生活の中でいろいろいなものを見ていながら、それらのすべてが自分の目の位置でとらえたかたちなんだ、という反省を特別にすることはありません。その必要がないからです」ときたもんだ…音声についても「外国人の音声をまねたのは、対象を感性的にとらえてその忠実な模写を試みたのですから、作者の表現にはちがいありませんが、そこには概念としての認識に欠けています」それは一つのおうむ返しってか(笑)「モンタアジュ論者は、表現の二重性についての反省がなく、映画の画面のつながりと言語の単語のつながりとの間の本質的なちがいなど全然理解することができなかったのでした」言語的表現と非言語的表現についてじっと手を見るとか(笑)

 また、日本語が膠着語であるとゆーとこで「ラテン語やギリシャ語に対する文化的な信仰を持つヨーロッパの学者は、これらが複雑な屈折性を持っていることから、屈折語こそもっとも進化した言語であって、孤立語→膠着語→屈折語とすすむものだと信じていました。日本語がヨーロッパの言語にくらべて未発達だと信じられて来た理由の一つも、この言語進化段階論でした」だそな…だが、しかーしっ「いまではこんな段階論は信じられていません。そして逆に、屈折語はみんな孤立語に変わっていくのだという段階論すらあらわれています」とな…言葉の道もどっちに行くだぁー(笑)

 アリス的に言葉とか日本語とかは商売道具だからなぁ…作家的なとこで「小説の作者は、空想の世界を創造することで観念的な分裂をしなければなりませんし、この分裂した自分はその世界に登場する人物につぎつぎと自分を変えて、それらの人間として考えたり語ったりしなければなりません。この活動のあいだには、ペンを置いて現実の自分にもどってくることも必要です。訓練されているからそれほど感じないとはいえ、これはたいへんな重労働で、この重い精神労働が続くとしまいには耐えらなれなくなります。突然流行作家になって、新年号にのせる短編小説をたくさんの雑誌から注文されたために、とうとう死んでしまった小説家も戦前にはありました」そな…アリス、准教授にからかわれるのとどっちがアレかなぁ(笑)

 後は落語好きのアリスって事でそこつ者が引用されているとこかなぁ?ミステリ的にはチェスタートンとか、クリスティの予告殺人なんかもチラっと出てきますが(笑)

 日本語と外国語の違いで一番に上げられるのが敬語だというのはよく分かるんだけど、夫婦間でお互いの事をお父さんとかお母さんと呼び合うのもないんだとか…だって言ってる本人の親じゃないんだし、と…まぁだからハニーだのダーリンだのある訳なんだろかぁ?で助詞についても「そもそも助詞とよばれるものは日本語に独自な語であって、ヨーロッパの言語にはこれに相当する言語がなく、助詞のごく一部にヨーロッパの言語に似た性質のものを見出すだけですから」だとか…はとがの違いって何ですかぁー(笑)

 そーいえば日本人にとってとかく諸外国の言葉は発音が一番のネックになっていくんだけど、「ニッポン語の発音が、もとは、ひじょうにふくざつなものであり、ナラ朝ごろまでは、まだ、他の「ウラル・アルタイ語族」と同じていどのふくざつな特色を持っていたことは、まえに述べたとうりだ。それが、ヘイアン朝ごろから、急にはったつを始め、どんどん変化して、とうとう、今のように、世界でもっとも単純化した音のくみたてにまで達した。単純化が、すぐに、合理化であり、科学的に正しいせいりであればこそ、これをはったつといい、進化ということができる」(@タカクラ・テル『ニッポン語』)だそで、海外で言葉通じねぇーと嘆かなきゃいけないのはご先祖さまの進化(?)のせーかっ(笑)

 個人的には、「の」の表現なんか面白いと思ったが?「知らないと言ったら知らないのさ」の"の"と、「赤いのがほしい」の"の"と、「顔が赤いのは熱があるから」の"の"は、皆違うんですねぇ…他にも例文でてきますが、それって何詞?となると、あまり真剣に考えた事がなかったなぁ?

 「我々が文法書をひもといて一番奇妙に感ずることは、文法で説く「文」又は「文章」の定義が、修辞学で説く文章の定義と全く何の関係もないことである。ところが本来、この二つでとりあつかう文は、同じものなのであり、同じ実例が文法と修辞の両方に採用されて居ることは珍しくない。同じものから全くちがつた定義が生まれることは、何としても奇妙であると言わなければならない」(@波多野完治『文章心理学』)とな(笑)でこれは結局何が言いたいのかとゆーと「それはそれぞれの理論に大きな欠陥があるということを暗示しています」と著者はスッパリ言っちゃうし(笑)

 それでも日本語は続くでして、そりゃ「現在の日本語が、いろいろ改革しなければならない点をもっていることは事実です」なる訳だけど、だからと言って「部分的な改革も全体的な影響を及ぼさずにはすみませんから、軽率な改革が全体の混乱を招かないように慎重に考えなければなりません」に尽きるかなぁ?軽率な改革、何となく何でも世の中そればかりなりと思うのは気のせいかっなぁー(笑)

 目次参照  目次 文系

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