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2012年3月31日 (土)

朝日ににほふ山さくら花?

本居宣長 上  小林秀雄  新潮社

 タイトルは本居宣長なんですが、これはむしろ本居宣長を中心に据えた日本の古典文学とは何ぞや?の世界かなぁ?何とゆーか、トーシロからすると源氏物語も古事記も古い話じゃないかぁーと思うんだけど、そりゃ全然違いまっせと…古典一つ一つが立ち位置違うとゆー、違いが分かる人じゃない?とと(笑)

 で、まず本居宣長ってなんやねんとゆーと、江戸時代の文学者かなぁ?元は伊勢の大店のご子息にして、後に松坂で開業医となり、副業というか、趣味でというか、で文学論に突き進んだ人かなぁ?元祖おたくかもしらん(笑)まぁお江戸の時代でも、分かる人しか分かるまいの古典三昧って、どーよ(笑)ままま、かの賀茂真淵の弟子となれば、その筋ならばピンとくるとゆーものか(笑)

 そして本書はこの宣長の話になるまでに結構なスペースで、いろんな人が出てきます…契沖、景山、藤樹、仁斎、貫之、真淵等その道の系譜以外のなにものでもないよーな(笑)そして、宣長の仕事というか、研究成果というか、の古典たち…源氏物語に万葉集に古事記と展開していく訳です。その中でも本書は源氏のとこがメインかなぁ?その点では本書冒頭の折口信夫との邂逅での「小林さん、宣長さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」(@折口)の科白はそのままインパクトを持ってくるなぁと(笑)

 いえ、もー一言で語れる本ではないので機会がある人は本書をドゾ。まさにジャパネスクな本でございまする。

 アリス的に本居宣長…うーん、接点的にはフィクションを意識した男とゆーとこだろか?感覚的には好信楽辺りが被りそーだけど(笑)で、日本最古(世界最古)の小説、源氏物語なのであるが「式部は、物語とは、女童子の娯楽を目当てとする俗文学であるという、当時の知識人の常識を、はっきり知っていて、これに少しも逆らわなかったという事になる」とか、「物語には「そら言にして、そら言にあらず」とでも言うべき性質がある事、更に進んで、物語の本質は、表現の「めでたさ」を「まこと」と呼んで、少しも差し支えないところにある事を、率直に認めざるを得なかったのである」とか、「時代の通念に従い、婦女子の玩物として、「源氏」を軽蔑していながら、知らぬ間に、その強い魅力のいけどりになっている知識人達の苦境を、まことに正直に語っているからだ」とか…どーも、大の男がフィクションなんかにうつつを抜かすなんて何事かぁーとゆー建前と、本音としては源氏好きやねんとゆー…所詮、男のメンツってそんなもんってか(笑)面白いものは面白いんですよ、そして1000年も生き残っていくんですよと…

 他にアリス的なとことゆーとかの紀貫之の有名な歌「月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして」のとこかなぁ?月が出てきたら反応しない訳にはいかないでしょ(笑)

 さて、本書的には豆知識も満載で例えば「「やまと魂」は「源氏」に出て来るのが初見、「やまと心」は赤染衛門の歌(後拾遺和歌集)にあるのが初見という事になっていて、当時の日常語だったとみていいのだが」だそで、「吉田松陰の「留魂録」が、大和魂の歌で始まっているのは、誰も知っている事だし、新渡戸稲造が「武士道」を説いて、宣長の大和心の歌を引いているのも、よく知られている事である」だそな…サッカーとかのゲーフラの元が源氏…うわぁー(笑)

 後は、室町の文化的側面についてかなぁ?所謂戦国時代で切ったはったの血で血を洗うと言われているけど、下剋上とは文化もまたありなんてとこでしょうか?いっぱいあってなとか(笑)「要するに馬鹿に武力が持てたわけでもなく、武力を持った馬鹿が、誰に克てた筈もなかったという、極めて簡単な事態に、誰も処していた。武士も町民も農民も、身分も家柄も頼めぬ裸一貫の生活力、生活の智慧から、めいめい出直さなければならなかった」って…知恵を出すには教養の下地が必要ってか(笑)

 とまぁ、あげていったらキリがないので、最後に一つ「すべて男も女も、わろものは、わづかにしれるかたの事、のこりなく見せつくさむと思へるこそ、いとおしけれ」とな…いや、式部も宣長も本音で一刀両断の人なのか(笑)

追記 本居宣長 下  小林秀雄  新潮社

 そして下巻では舞台は古事記になる訳ですが、うーん、相変わらずの宣長節なんだろか?同時代的にもどーよ?という見解だった模様…ここでもまぁ日本文学史の系譜が連綿と続いていて、白石とか高名な方々が出て来るんですけど、むしろ宣長的には上田秋成でしょーかねぇ?見解の相違はいかんともしがたいと(笑)

 さて「「古事記」は、文学としては、興味あるものだが、歴史として、信用するわけには参らない。今日では、そう考えるのが常識になっている」と初っ端から始まっていたりして、宣長の立場は?の世界であるが(笑)でも宣長的には、嘘か?真か?なんて次元ではなくて「物には「おのおの性質情状」が有る、という疑いようのない基本的な智慧を、誰もが、おのずらか得ているとする。これは、宣長が、どんな場合にも、決して動かさなかった確固たる考えなのであって、彼は、学問は、そこから出直さなければならない、と言うのである」いやもー動かざる事岩のごとしってか(笑)むしろ、私には信念があるぅーっと拳突き上げないといけないのか(笑)

 でもね「「古事記」は理屈でもなければ、正確を期する、どんな種類の記述でもない」とかあって、古事記って何なんだぁーっ?の世界も炸裂していると(笑)で、宣長のスタンスというのが「儒家に限らぬ、仏家も神学者も、皆、わが宋の掟にくくられ、学問などしているとは言えないでのであるから、そういうもの知り人が、愚かな伝来の縛られた芸人達を難ずる資格などないのである」とゆー無我の境地(笑)

 でもでも世間一般は「大事なのは、真ではなく、むしろその証拠だと言ってよい。真が在るかないかは、証拠次第である」が常識じゃねぇーの?まぁふつう、外から見てどないやねん?の世界が常考らしーし(笑)だから、ディープなというか、己をむなしゅーして飛び込んで内から見る宣長流は「宣長の「古学の眼」は、世の識者達には、大変評判が悪く、論争の種となった」とゆーのは、分かる人にしか分からないのが世の常じゃけんになるのかなぁ(笑)違いが分かる男、どこにおんねんとか(笑)

 本書的にトーシロでも比較的分かり易いのは、解説代わりなんだろか?の著者と江藤淳との対談なんですけど、そこで著者は「あの人の言語学は言霊学なんですね。言霊は、先ず何をおいても肉声に宿る。肉声だけで足りた時期というものが何万年あったか、その間に言語文化というものは完成されていた。それをみんなが忘れていることに、あの人は初めて気づいた。これにはっきり気付いてみれば、何千年の文字の文化など、人々が思い上がっているほど大したものではない。そういうわけなんです」と言い切っているとこで、何となく納得させられる気が(笑)

 これに対して江藤の方も「通常学問があるというと、文字を知っていることだと理解されています。同じように、われわれは言葉というと文字であり、文章のことだと考えがちですが、実は言葉とはなによりもまず声のことなのですね。自分の経験から気づいたことですが、放送というような、毎日声で勝負しているような世界でさえ、言葉とは文字だという考え方にとらわれていて、却って表現を貧しくしているという傾向があるようです」とな…表現の道は厳しいってか(笑)

 さて、下巻で一番はーへーほーと思わされたのは「堪え難い心の動揺に、どうして堪えるか。逃げす、ごまかさず、これを堪え抜く、恐らくたった一つの道は、これを直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる、そういう道だ。力技でも難業でもない、それが誰の心にも、おのずから開けている「言辞の道」だ、と宣長は考えたのである」のとこかなぁ?そこまで覚悟の出来たお人なんて、この21世紀にいるのだろぉーか?聞いた事ないけど(笑)

 目次参照  目次 文系

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