« 発見は誰か一人の業績であることはめったになく、発明にいたってはまったくそうでない(笑) | トップページ | にっぽんのお蕎麦屋さん(笑) »

2014年5月27日 (火)

正直しんどい…

ダライ・ラマ  ジル・ヴァン・グラスドルフ  河出書房新社

 サブタイトルは、その知られざる真実なんですが、今、真実が重いってか?ある意味、これは真実の物語であるの世界なんだろーけど、見方によってはというか、立場によってはだろなぁ…まさに高度に政治的な問題というヤツでございますよ、奥さん(誰?)ただ、まぁ本書を拝読して思う事は、中国と国境を接している国でしあわせな国(国民)があるのか?という素朴な疑問でしょか(笑)本書は、その中の一国チベットの、これまた一個人(?)のダライ・ラマに焦点を当てていますが、それだけでこれですから…ウイグルも、モンゴルも、その他少数民族も、インドもネパールもブータンもベトナムも、台湾も、東シナ海で隣接している諸国etc.も他人事じゃないんですよ、おぞーさん(誰?)…何が凄いって、本書にのっとっていけば、今の中国共産党だけでなく、その前の中国国民党の時代から中国人のやっている事にかわりなしなとこじゃまいか?どこもかしも皆中国のものが当たり前、異論は認めないと…

 で、まぁ、対するチベットですが、ある意味前時代的、宗教的となるのだろぉか?政治的には政教一致なとこでしょか?後に亡命したダライ・ラマによって政治と宗教の分離、国民参加の方向に向けて発信していらっさいますが、うーん…本書の解説にもあるのですが「チベットにユートピアを見る人には、本書の内容は受け入れがたいものがあろう」(@石濱裕美子)に行き着くかなぁ?チベットはおとぎ話やファンタジーではなく、リアルに普通の国でござるという事ですよねぇ…とゆー事は善人もいれば悪人もいるし、裏切者もいれば、権力欲に溺れる者もいると…それらをひっくるめてチベットであって、清濁合わせのむ気概がないと、本書を読み進めるのは非常に厳しいものがあるかも…

 まぁともかく、第三者の目から見たチベットというものの一つではなかろーか?本書のタイトルはダライ・ラマですが、現在の14世からではなくて、13世の晩年から始まっておりまする…そして、それが激動の20世紀アジア情勢と被るとかが何とも…それにしてもチベットというと山の上のとこだけかと思っていたら、その山麓もチベット領だったのか?自治区的なそれでいくとチベットって結構広域なんですよ、姐さん(誰?)ある種、中国の後ろ半分(南西殆ど)というノリ…現有中国の土地1/3位(1/4以上は確実にあると思う)はあるんとちゃうか?の世界でして、これは中共としては独立も自治も認めたくなくなるだろぉな(笑)

 大きさ的には大国(というか、中位より大き目?)のチベットは、他国の侵略について鉱物資源はともかく、農産物的に貧しい土地とあの山のおかげで今一のんきに構えていたよーな?それが第一の悲劇の誕生ってか?

 アリス的には、チベット…うーん、雑学データベースのアリスとしてはあると思いますなのだろか?まぁ仏教的つながりであると思いますもあるのか?

 そんな訳じゃあるのかないのか、初っ端にまず「チベット人中国人とを問わず、その他多くの証人の名前は本人たちの希望もあり、各氏の身辺に危機が及ばぬよう匿名にさせていただく」と断り書きを入れないといけない位ですから、本書の意義が分かろうというもの…まさに言いたい事も言えないこんな世の中じゃなんですね、分かります…

 それにしてもチベットについては何も知らないに等しい事を知りました…ちなみに13世当時「国家機構のすべてをおよそ三十の血族が占めていて、いかなる改革案もしまいには潰される仕組みになっていたのである。それぞれ血族は一つ、もしくは複数の大臣職を握っており、主要なポストに血縁者を指名していた」って…よーするにチベットでは一部の特権階級によって行政が独占されていた模様…「各血族はことごとく一人、多い場合は数人の転生者を代々主張し、つねに僧院とその管轄を掌握し続けた」しかも、「それらの血族は公金と個人資産の区別をせず、いわば私利私欲のために法、すなわち仏陀の教えを利用する悲しむべき傾向にあったのである…」とゆー世界だった模様…

 で、更に凄いのは、これまたきな臭くなってくるんですが、代々の法王がこれまた「九世、九歳で没。十世、二十一歳で没。十一世、十八歳で没。十二世、十九歳で没」という歴史が…「この相次ぐ早逝は、摂政、高位聖職者、そして貴族たちの権力闘争と退廃がもたらした毒の結実であると、十三世は見ていた」とな…きな臭くというより血なま臭くなって参りましたでしょか?生き仏と崇められているよーで、その実はと…チベット上流階級パネェ…そんな中1933年、十三世がお亡くなりになると…

 さて、時代は20世紀初頭、激動のアジア情勢でございますの世界で、「とうの昔から、モスクワ政府は「世界の屋根=チベット」に対する野心を隠していなかった」で、下々には共産主義万歳のビラを配ってプロパガンダ、十三世には謁見して取り込もうと躍起になっていた模様…18世紀にダライ・ラマ七世はロシアのエリザヴェータに書簡を送って、キャフタ条約を結んでいたりするんですね…意外と緩く付き合ってこれた模様…だがしかし、「ソヴィエト社会主義共和国連邦の成立と中国共産党の結成を見ると、事情は一変する」とな…

 一方、「中国国民党は、副参謀長の黄慕松将軍に特命を与えた。中国国民党の弔意を摂政とチベット政府に伝えると同時に、ラサに中国外交官を置かせることである」とな…ちなみに「ダライ・ラマ十三世による一九一三年の独立宣言以来、チベットの首都に中国の役人はいなかった」そな…という事はあれから20年たちましたの世界だったのか?

 そして今、「贈り物に目を眩まされ、お追従にうっとりした貴族や何人かの高位聖職者たちは、忘れてしまっていた。二十年前に中国人が歓待を裏切って陰謀を諮り、数々の犯罪を起こし、数々の恐ろしい残虐行為に及んだことを…。人はこれほどに忘れっぽいものか」って…結局、中国と手を切った20年に国防も教育もコンセンサスも行っていなかったチベットは再び、同じ手にはまっていくという事でしょか?

 やがて「中国の口調が変わり始めた。贈物も献金もお追従も、終わった。特命第二部に移ったのである。すなわち「宗主国」との建設的な関係の再建が絶対に必要であることを、チベット当局者たちに思い出させなければならない。ほかの諸外国とのあらゆる関係を断ち、南京政府当局が指名した大使の常駐を認めさせなければならない。将軍は実行に移した」とな…で、大使を置く事はできなかったけど、ラジオ放送局の開設の任務にあたる二人の役人を置く許可を取り付けたとな…

 外交で後手に回った若き摂政はダライ・ラマ十三世創設の外務省強化を、諸外国代表は外務省を通してねとしたのだが「英国人はゲームのルールを守るとしても、中国人はそうではなかった」…「計画的に外務省を無視したのである」と、その心はチベット摂政と内閣の対立、不和を煽る事…不安定化工作が始まったとゆー事ですね、分かります…しかも「南京政府はその一方で、何人かのチベット政府役人を誘惑し、成功を見ていた」とな…

 よーするに、チベットの行政も、貴族も、僧も腐敗していたというとこから始まる訳で、「金、服、女、そして馬」に走っていた模様…だから、誘惑にも弱いし、既得権益に血道になっていたと…「怪しげな摂政政治、曖昧な内閣、首相の不在。退廃と犯罪を温床にして、それらすべてが育った」世界がチベットの中央という事になるよーで…虎視眈々と狙ってきているソ連、中国に、これまたアジアまで引っ掻き回しにきましたの大英帝国を向こうに回してチベット政府の明日はどっちだと言うまでもないよーな…

 しかも財政破綻も半端ねぇときたもんだと…「堕落した役人たちが国庫を空にするので、なかば造幣が日常茶飯事になってしまっていた!」って、紙幣の流通量ってそれ金融の初歩の初歩だと思うんだが?気のせいか?もしかして、チベットには財務省も、中央銀行も、金融庁も、そんなの関係ねぇー(死語?)だったのか?素晴らしきチベット世界で今日も回っていまーすとな…

 一方、中国・チベット国境地方総督劉文輝が「新たな領土拡張を企んでいた」と…「村民を虐殺し」「遊牧民も皆殺しにした」、中国人が食糧にした為「犬が姿を消した」とな、一方猫の方は「生きながら生皮を剥がされ」て「その皮は寺に投げ込まれた」と、「僧侶は首を切られた」「殺戮者は首に杭を刺し、まだ血が滴っているところを村民に見せつけた」という、無法がカム・アムド地方で展開されていった模様…中共以前に既にこーなんですよ、奥さん(誰?)

 さて、そんな中、ダライ・ラマの転生者を探せ?も進めていた訳で、これに関しての詳細は本書をドゾ。結局は、家族はラサに移動する事になるのですが、「ダライ・ラマはアムドで見つかった。無事、ラサに迎えなければならない。しかし、アムドは中国人の支配を受けている領土である。容易なわけがない」という現実。「ラサ市民はあえいでいた」「国民のすべては不自由していた」…ダライ・ラマのラサ入りについての詳細は本書をドゾ。ですが、これによって権力を手に入れたダライ・ラマの父は、溺れていくと…まぁ、権力と金を手に入れて、入れられるようになって、腐敗しない人の方が珍しいとしても坂道を転げ落ちるよーに、もっと金を、もっと馬をと突っ走る父哀れってか…成程、ダライ・ラマも自身の事だけでなく家族もついて回るという事なのか?ちなみ、入城当時ダライ・ラマは5歳になったか位のはず…

 尤も、これは一人ダライ・ラマの父だけではなく、「貧困にあえぐ庶民などおかまいなしで、金持ちたちは首都に流れるキチュ川やツァンボ川の岸辺では、相変わらず毎日、誰かしら饗宴を催していた」って、「貴族の家は年がら年中、客で一杯であった。チベットのいくつかの名門の生活は、それはそれは贅沢なものであった。彼らは伝統のチュバなどは着ないで、洋服を着ていた。照明もガス灯やタイレー・ランプ。チャンよりスコッチ・ウイスキー。ワイン党はゴルコンド・ワイン。女なら甘いリキュール」と文字通り、甘い生活をしていた模様…

 さて、時代はWWⅡに突入していく時代でして米も接触してくると…「アメリカは、チベット領土通過の許可を求めていたのであった」この際、中国の苛立ちなど二の次だったというとこが、実に米らしーのか?「アメリカのチベット支持」あったけど、果たして「中国国民党もしくは共産党がチベット領土を侵した際には、アメリカは飛んできてくれるのか?」まさに、これまたそんなの関係ねぇー(死語?)の世界が展開してしたけど、それはともかく米の特使二人は現地で「チベット人を脅かしている中国の脅威の大きさ」を目する事になると「次の侵攻はいつなのか?人びとが口々にそう問わない週末、いやそう問わない一日はないありさまであった」とな…

 結局のとこどーだったのかといえば、「隣りの強国中国に対して彼らの出来ような外交は、わざわざ戦場を用意してやったと言っても過言ではないのである。共産党に侵略される以前に、国民党にも侵略されかけていたのだ」というのが、チベットの現状であったとな…それが対外的な常態で、対内的な方は凶作の農民に対する貸付問題にあり、僧侶が法外な利率で貸し付け、借金と取り立てるという構図が成り立っていたよーで、ついに1944年、「内閣は滞納負債利子の全額免除の政令を発したのである」とな…この辺りの感覚は日本で言うとこの徳政令に近いのか?ただ、そんなの関係ねぇと僧たちは借金取りに行き、農民たちも骨の髄まで宗教がしみ込んでいるのか、そんな僧侶達を「平伏礼拝」して迎える始末…

 そんな僧侶達が何をすると言えば「納屋の戸を開け、収穫物を取りあげ、馬を取りあげた。哀れな農民はそれを見ているほかなかった。放牧してあったヤクや羊も持っていかれた」「こうして彼らは、あちこちの集落や村をまわり、収奪を重ねた。とんでもない話である!」いやーチベットには一揆という概念がないんでしょーか?でもって、チベットの僧侶ってそゆ人達なんでしょーか?とにかく、チベットに来る人達は、中国国民党も、共産党も、貴族も、僧侶も、皆農民の物はオレの物状態だったよーで、もってけ泥棒状態か?

 「中国のチベット侵攻の脅威はますます高まっていた。しかし、権力争いに夢中になっている高位聖職者と貴族に理性を取り戻させることができる者は、誰一人現れなかった」とな…いやもー何とゆーか、ソ連(ロシア)、中国に隣接していてこの状態って、日本もかなり平和ボケしていると言われて久しいが、チベットの場合日本よりヤバくね?じゃね?じゃねでこれって、どーよ?じゃまいか?と思うのは気のせいか?

 さて戦い済んで陽が暮れてで、1947年夏、インドが独立したとな…この時が千載一遇のチャンスだったとな…「外交に疎いラサ政府は、みすみすこの僥倖を逃すことになるのである」と…それでも「今や世界的に有名なガンジーが、チベットは正真正銘の独立国であると認めたことになったのだ。無論、中国は抗議した」と…まぁその後の(前も変わらずだけど/笑)チベットの後手後手振りは変わらずで、詳細は本書をドゾ。今のダライ・ラマの政治的駆け引きを拝見しているとチベットって、と思っていたらもしかして、今のダライ・ラマの手腕が特出していると言うべきか…

 それはともかく「初めにも終わりにも、イギリス側の曖昧かつ卑怯な態度があった。大英帝国は、アジアでロシア人が影響力を拡大するのを恐れていた。ロンドンは、チベットに対する中国の支配権を認めることで、本来なら「世界の屋根=チベット」と交渉しなければならないことでも、北京と直接交渉していた」これも今更の話ではない、かつて「一九一〇年、チベットにおけるイギリスの存在を払拭すべく「世界の屋根」に満州人が侵攻した。ロンドンは口も出さなかった」という前例があるそーな…さすが、元祖二枚舌外交の国、そこにしびれるあこがれるぅー…

 結局、これは戦後の態度もさして変わらずで、チベットは財政、鉱物資源開発なんて頭になく、英米に「援助を求めるほうを選んだ」りしてたりして…でも、その外遊で米は「蒋介石を怒らせることを嫌って、大統領はチベット人と会わなかった」し、英でも「誰も、蒋介石とは真っ向から対決するつもりはなかったのである」とな…本当にいざという時に頼りになるアングロ・サクソンの皆様ってか(笑)

 さてさて、転生者問題は本当に部外者的には分かりにくい概念じゃね?で、これはまさにチベットのチベットによるチベットの中の人な話だと思うのだけど、1949年、今度はパンチェン・ラマの転生者問題が浮上してくるんですよ…そしてこれに「中国国民党がからんできたので、状況はますます複雑な様相を呈してきた」とな…「蒋介石は、ロプサン・ツェテンを支持することに決めていた」でもって「政令まで発布した」とな…「チベット領土になんとか諜報員を置きたくて仕方のない中国政府が、欲望の度を過したと言わねばなるまい。ロプサン・ツェテン指名祝いとして中国から複数の贈り物があった。その中には大量の金もあった。そのうえでクンプム大僧院に代表を送り、即位式を司らせたのである」…

 更に、中国国内の勢力争いで国民党が脱出、中共が政権奪取…さて、どちらにつくか?「パンチェン・ラマはチベットと彼の民と離れることを拒否した」、結果その後どーなったかといえば「中国人民共和国の人質になる羽目に陥る」かくて「パンチェン・ラマの決断は、毛沢東にしてみれば僥倖と言えた!」になってしまうとな…

 さて、蒋介石アウト毛沢東インで、どーなったか?「毛沢東は歴代の皇帝と同様、北京に居を構えるやいなや、その支配力を朝鮮とチベットに拡大しようという狂おしい思いを抱き始めた」となる訳で、「ダライ・ラマの教権政治からチベットを<解放し>、奴隷状態から救い出すべく」実行に移るとな…「チベットを、中国という大家族に連れ戻さなければならない」って、家父長系を叫ぶのって、たいがいマッチョ思考の殿方なのは何故なんだぜ(笑)かくて「より良き生活、富、習慣と宗教の尊重を、チベット人は中国共産党から約束された」そな、中共からのお・や・く・そ・くキタコレ(笑)

 結果、どーなったか?僧院の破壊、村民の飢餓、そしてこれまた人民裁判が施行されると…「何時間も立たされて村民の前で自己批判をさせられる。犯してもいない過ちについてまでも」…「その間、中国人が犠牲者に手を上げることは決してしない」「犠牲者の同朋であるチベット人をけしかけてやらせるのである」「手加減が見破られると、殴る側に立たされている者が殴れる側に突然変わる」「犠牲者の家族の中から子供、子供がいない場合は最も若い者が選ばれる。父や母や叔父を殺させるためである…。」俄かに現実とは思えない話ですけど、これ20世紀半ば過ぎの話ですから…

 さて、クンプム大僧院の座主、トゥプテン・ジクメ・ノルブ、ダライ・ラマの長兄は、共産主義の地方総督にチベット人に対する行為の現状を訴えると、総督は「調査をすると約束した。無論、何もするわけはなかった」とな…ここでも、でました中共のお・や・く・そ・く(笑)むしろ、逆に「ラサに赴き、中華人民共和国を代表してダライ・ラマに苦情を申し述べてこい。彼らはダライ・ラマの兄にそう命じた」「弟に共産主義の理論を受け入れさせ、人民解放軍の兵士たちを大いなる勝利者としてラサに迎え入れるようにさせよ。そうすれば、そなた宗主国の英雄になれるぞ」とな…「ダライ・ラマがすべてを拒んだ時には、彼を物理的に消し去らなければなるまいな」って「弟の暗殺者にさせられる可能性が出てきたのである」とななな…勿論、「家族の長兄は、中国のこのとんでもない命令を真っ向から拒否した。するとやがて、すさまじい圧力がかかってきた」かくて、クンプム大僧院から離れてラサへ逃避行となるのか?ですけど、中共の進軍が始まっていたとな…

 北京放送曰く「英米のアングロ・サクソン帝国主義者がチベットを虐げている。彼らの抑圧から、チベットを解放しなければならない…チベット問題に関するいかないる不当な干渉も、われわれは許さない」って、これまた元祖おまゆうか?「中共軍に"中国西部国境地域の防衛強化"命令が下された」という事は「ラサへ向けて、共産主義者の進軍が始まった」とこれまた北京放送…1950年10月24日の事でございました…

 そしてチベット国内政治も相変わらず腐敗の温床のまま、さすがの市民も声を荒げて、慌てた摂政は国連に助けを求めたと…「チベット当局が国際調査委員を送ってほしいと何度も要求したにもかかわらず、送ってくれるどころか血も涙もない仕打ちを受ける羽目になったのである」…「一九五〇年十一月十五日、エルサルバドルに脅されたかたちで、チベット問題が国連総会に提起された。しかし同月二十四日、討論は無制限に延期されてしまった。チベットは「中国国内管轄権」の下にあるから、ということで…」さすが天下の国連、戦勝国の円卓、そこにしびれるあこがれるぅ…

 かくて大英帝国サマのお言葉「チベットに対する同情を表明した。しかし、残念ながらわが国はこの問題に関しては介入できない、と逃げた」とな…さすが元祖、紳士の国は言う事が違うぅーっ…「だがじつは、イギリスはアジアのこの地域に関して大いに自分を責めなければならないはずである」って、さすが著者は仏人のジャーナリスト(笑)ちなみに「インドは外交的な忠告に終始した」で、「中華民国だけが立ち上がろうとしたが、一九四九年に喫した「軍事的な惨敗」から、彼らはいまだに立ち直れてはいなかった」…結局、どゆ事かというと「国際連合に見放され、以後、チベットは悲劇的運命の流れに委ねられてしまったのである」になると…チベットに言える事は恐ろしい位までの外交センスの無さが、これまた恐ろしい程裏目に出た結果がついて回る事になると…チベットの立地において内ゲバなんてしている場合じゃなかったとゆー、外に敵がいてもまとまらない国って、ある意味物凄く希少なんではあるまいか?

 かくて「エチオピアがイタリアに侵略された時、国際連盟に抗議したエチオピア皇帝ハイレ・セラシエと同じ孤高に、法王はあった」になってしまったんですね…ちなみにその当事者ダライ・ラマは御年15歳でありました…

 ここにきて「議員たちが、ラサを離れるように法王に懇願したのである。チベット全国民のシンボルが、共産主義者たちの手に陥ることがあってはならない。すでにもう一つのシンボルであるパンチェン・ラマ十世チューキ・ゲルツェンが彼らの手に握られているとあれば、なおさらであった」…風雲急をよーする事態になってきた訳とな…傍から見ると今更騒いでいる議会も何だかなぁだけど…

 1951年春の北京政府によるバンチェン・ラマを交えた「最重要政治会議」が行われる事になると…チベット的な見方では「ダライ・ラマとパンチェン・ラマはともにチベット国民の精神的指導者であっても、パンチェン・ラマの権力はきわめて制限されていた。まず、パンチェン・ラマはダライ・ラマを継承できない。そして、チベットの君主権に関する書類には、どんな些細な書類であろうと署名することはできない」はずなのである…が、しかし、中国共産党の考え方は違ったと…「パンチェン・ラマ十世を対チベット政策における中国の第一スポークスマンに仕立てたのである」これからはダライ・ラマではなくてパンチェン・ラマじゃーっと「揺るぎない共存関係を中国は実現したことになる」とな…1951年5月23日、「ダライ・ラマと彼の政府にとっては受け入れることができない「十七箇条協定」にチベット側が署名してしまったとな…「合意文書には、北京で大急ぎで偽造された若きチベット法王の印があった」って、国際条約的に偽の印鑑って、それってありですかぁ?これによって「その日は、独立国チベットが世界から消えて存在しなくなる日となった」って…

 後日パンチェン・ラマに毛沢東がいった科白が「この協定は、一つの素晴らしい勝利です。しかし同時に、完全勝利への第一歩でしかありません。第二歩目は、協定を実行に移すことになるでしょう。一生懸命、それに励まなければなりませんね」とな…ちなみにこの時パンチェン・ラマ十世は13歳でございました…

 何がどーしたとなれば、若造二人を「自分たちの手の動きで躍る操り人形に仕立てようとしていることは明らかだった」という事に尽きるよな…「ダライ・ラマ十三世とパンチェン・ラマ九世に対して、かつて国民党が試みて結局は失敗に終わっていたことに共産党が挑戦したのである…」まさにゴングが鳴った瞬間か?かくて「中国軍第十八部隊の兵士三千がラサに入城した」「この悪魔たちは、永久に出ていかないことになる!」…一方、クンプムの大僧院は「軍人と特務機関の諜報員に占領されていた。大半の僧侶が北京政府に忠誠を誓っていた。そうでない僧侶たちは、中国式強制収容所である労改に送られたか殺されていた」って、共産主義者の僧侶、あると思いますの世界なのか?大いなる矛盾を感じるのは気のせいか?

 一方、パンピーの皆様の方はというと「カムとアムドで中共軍人が村や集落や遊牧民のキャンプを包囲し、八歳から十五歳の少年を奪い去っていった」とな…「こうして、数百単位で青少年が連れ去られ、二度と戻ってはこなかったのである」拉致が日常って、悪夢の始まりか…また、僧侶の方は中国に移送されていた。「抵抗した僧侶たちはその場で殺され、死体は穴の中に一緒くたに投げ込まれたということだった。また何か月も、あるいはすでに何年も、行方知れずの僧侶たちがいるということだった」で、勿論お寺も空っぽでございますの世界が展開…

 そしてダライ・ラマの方は孤独なゲームに参戦をよぎなくされていたと…「政治ゲーム盤上のダライ・ラマを、決定的に排除すること。それがゲームの目的だった。具体的には、法王をポタラ宮の操り人形にすること。必要とあれば殺してしまうこと。たった十七歳の少年が見せた抵抗に、共産主義者たちは我慢がならなかったのである」「第一手として、僧院の座主たちや退廃的貴族、そして法王とその家族、すなわちこうしたチベットは貪欲な国である、と世界中に信じ込ませることが肝心だ。ヒマラヤ高原で共産主義者が始めたこのチェス・ゲームで、テンジン・ギャッツォを消すことは簡単なはずだった」で、思い起こすのは前の前の前のといった歴代ダライ・ラマ達の寿命の早さでしょか?多分、今までは国内勢力によるそれが、国外勢力によってさらされようとしている事態になったとな…

 そんな中1953年に朝鮮戦争が一段落ついた事で、中共がチベットに対してのギアを一段上げてくる事になると…「東部チベットのカム人の蜂起」、ダライ・ラマの兄弟達による米への外交的働きかけが「チベットにおけるアメリカの介入を招くことになるのを北京政府は恐れていた。アメリカと与する前に、いかなる抵抗勢力も排除しなければならない…。」対して米は「ダライ・ラマが「十七箇条協定」を拒否しない以上、明確なチベット支援は拒んだ」となってしまうと、米的には「朝鮮戦争の失敗の後で再びアジアの緊張を高めたくはなかったのである」って、でもその後にベトナムには突き進むんですね、分かりますなのか?米ェ?

 そして1954年の秋に毛沢東はダライ・ラマ、パンチェン・ラマ、他宗の精神的指導者達と初めて会見する事になると…で、ここでの毛沢東のコメント「私もじつは菩薩の化身なのだとつけくわえた」とな…「法王がその化身である慈悲の菩薩、つまり観世音菩薩でもなく、また、パンチェン・ラマがその化身である無限の光の仏、つまり阿弥陀仏でもなく、自分は知識の菩薩である文殊菩薩であると言ったのである」って、著者は続けて「してやったり!である。無神論者の共産主義者の毛沢東が、文殊菩薩の化身と見なされていた清朝代々の皇帝を継承したことを、ためらいもせずに表明することになるからだ」成程、中国共産党とはマルクス・レーニン主義を軽く突き抜けていらっさったんですねぇ、かんしんしますた…まぁ何にせよ、かの十七箇条協定は勝手に「変更されていたのである」で、結果「チベットの三分割」に進むと、チベット的には「そうなれば、もうどうすることもできなくなる」になってしまうと…

 こうして中国の侵攻以後、「自治区と呼ばれた区域は侵攻以前のチベットのおよそ三分の一の領土であること」、僧院の破壊、焼き討ち、略奪、青少年の拉致、更にチベット人の新生児も拉致、しかも大人達の方は「一九五五年から五六年のアムドとカム地方では、不妊処置や人工中絶が強いられた」…「以上は、中国人に対する告発ではない。事実の確認である」って、加えて著者は「反体制派の中国人魏京生の著書」からも引用していたりするんですよ、こちらは中国人の実態ですが「悲しい顔が交換し合った子供の肉をかじっていたのである」って、「さすがに自分の子供を食べることはできず、親どうしは子供を交換して生きのびようとしたのである。民主主義を殺した罪を拭うために開始した「大躍進」が、数えきれない数の農民を、飢饉の苦しみにたたきこんだ」結果、カニバリズムですか、しかも親が子供を…中国の実態としては「毛沢東とその一党は否定したが、失業率は記録的数字に達した」「中国人は餓死していいた」で「中国共産党と庶民階級との蜜月は、終わりかけているように見えた」と、ゆー…共産主義って失業ないんじゃなかったっけ?と素朴な疑問が?

 さて、1956年ダライ・ラマ一行はインド訪問を行っていますが、勿論中国共産党ご一行様も一緒です…チベット国内の情勢が年々どころか日々危なくなってきたので、ダライ・ラマに兄弟達はそのまま亡命を促しますが、ダライ・ラマは帰国すると「中国の首相兼外務大臣の周恩来が、法王たちにこう約束したからである。チベットは自治を保証され、中国がそこに共産主義を武力で導入することはありえない」ここでも出たぁーっ中国のお・や・く・そ・く…

 とにかくダライ・ラマがラサに戻ったからといってチベットの状況が好転する訳もなく、むしろ日々の抑圧は増していったんじゃまいかで、詳細は本書をドゾ。殺害もただの殺人じゃなんいですよ、おぞーさん(誰?)ダライ・ラマであろーとなかろーと聞けば誰も「身の毛がよだ」つよーな「中国人が行った残虐行為」の数々なんでございます…ダライ・ラマ曰く「中国の領土拡張政策の結果が、これです。チベット国家を破壊し、国民を非難し、チベット国内の地下に眠る豊富な資源を押収すべく仕組まれた意志に、ありとあらゆる犯罪を可能にする憎しみが加わっていることを認めざるをえません」

 結局、事態の悪化はいかんともしがたく1959年春、インドにダライ・ラマ亡命すになる訳で、尤も、ダライ・ラマの第一声については「新中国の情報局である公安部がただちに反応して、<テンジン・ギャンツォの真の声ではない>とほのめかした。情報戦争が始まった」で、6月20日、ダライ・ラマは記者会見を開き、「法王はその中で「十七箇条協定」の破棄通告をし、チベット文化、宗教、そしてチベット民族の根絶を諮っている中華人民共和国を告発した」まぁある意味宣戦布告の狼煙が上がったという事でしょーか(笑)

 チベット問題だけでなく、中国の大躍進の失敗は全土的規模の状況だったとなれば、餓死が常態じゃね、と…この辺りの詳細も本書をドゾですが、一例として「毛沢東がフルシチョフと論争を始め、かたくなにソ連の食料援助を拒否したので、中央政府は飢えた国民を救おうとしてカナダから麦を買いつけた。だがその麦は、国民であるはずのチベット人には一グラムも支給されなかった」という事実からもお察し下さい…ちなみに人民日報によると大躍進の大成功だそーだけど「中国の端からチベットの奥に至るまで広がった飢餓の悲劇によって亡くなった人びとの数が、やがて二千万人に達するの事実である」そーですよ、奥さん(誰?)

 事ここにいたってパンチェン・ラマは「チベット人民およびチベット各地方のさまざまな苦しみに関する報告、ならびに尊敬する周恩来首相の傘下である中央委員会の未来の任務についての諸提案」(「七万字」)という報告書を作成する事にした…「ダライ・ラマ不在の今、中央政府に対する批判をチベット国民の名において堂々と表明する責任を、彼以外の誰が果たせようか」って、それは聞く耳を持っている人には、ねの世界じゃね?結果、「毛沢東は「七万字」を中国政府に対する侮辱と見なしたのである。最悪の場合、挑発と受け取ったのだ」かくて「「七万字」を記したことはパンチェン・ラマ十世にとって、死刑判決にみずから署名したに等しかった」とな…

 一方、「中共軍はカギュ派の精神的指導者カルマパ十六世ことランチュン・リクペー・ドルジェに対する圧力を加速した」結果、彼も亡命する事になる、と…また、難民も日々増加の一途をたどり「一九六〇年には、六万人に達した」こんな状況の中、再び、やってきたました世界の正義、国連サマのお通りだって事で「一九六〇年、アイルランド共和国とエルサルバドルが支持し、マレーシアとタイが推薦するかたちで、国連のカレンダーにチベット問題が記載された」んですよ、姐さん(誰?)、だが、しかし、「審議はのびのびになり、結局は忘れられてしまったのである。ダライ・ラマとチベット国民にとっては、決定的な一撃であった」成程、あの国連の仕打ちを忘れないっとか(笑)さすが、戦勝国サマはやる事が違うでぇー(笑)

 また、インドと中国の関係も七変化な関係性で時々刻々と変わってゆくのねの世界でして、その度にその余波がダライ・ラマ以下の皆様にのしかかるのは必然で、印国内でも居を移してしたりしまするが、詳細は本書をドゾ。ちなみにこの亡命政府、「ネルーには認められていなかった」りもする訳だったりして(笑)

 さて、間に結構色々あるんですが、サクサク進んで、1962年、あれ程大躍進は大成功だったと公言してきた中国政府も否定し続ける事が難しくなってきたと…そして3月第二回全人代が開催された時、「鄧小平はこの祭典を有効に利用し、香港への接近の扉を「半開き」にした。六万人以上の広東州の住民が、飢餓から逃げるように数日間で英国植民地に到達することに成功した」事態になると…かくて「「大躍進」政策がどれほどまでに失敗に終わったかが、西欧人の知るところとなったのである」でして、それがどの位の話かと言えば「CIAの中国政治専門家と査察官にとっては、肝をつぶす発見であった」位のインパクトだったという事だそな…

 一方、1964年にパンチェン・ラマ十世はラサでの演説にて、中国政府を告発し、ダライ・ラマを讃えたとなれば、逮捕され、裁判という名の残虐行為に耐え、周恩来のすすめによる「悔い改める」事も拒否し、監禁生活におかれることになると…そして文化大革命がきて「かの有名な秦城刑務所」に入所する事になると「地獄の数年間が始まった」とな…

 何度目か忘れたよーな気がするが呼ばれて飛び出ての国連キタコレで1965年の暮れ、「タイ、フィリピン、マルタ共和国、アイルランド、マレーシア、ニカラグア、エルサルバドルの請求によって、国連が再びチベット問題の検討を始めた。今回は国連決議までいった模様(笑)「チベット人の基本的人権がいまだに侵害されている」とな…これについては「インドとアメリカ合衆国も、賛成の挙手をした」とはいえ、「チベット法王が行った数々の交渉の試みについては、条文に記されていても、相変わらず効力のない死文にとどまっていた」に過ぎず、「中国はダライ・ラマとの接触をかたくなに拒み、彼の提案はすべて蔑ろにされていたのである」で、振出に戻るってか?

 文化大革命と紅衛兵とチベットについては、本書の著者にしても「当時の真実は、めったに明るみに出ない。歴史的分析にしても、どちらの側もほとんど変化が見られない」となる模様…深淵が余りに深いと覗き込む勇気も覗き込んでも暗闇ばかりとなるのだろーか?何にせよ「今もってチベット人紅衛兵が生き残っているからである」という事実が事実であると…

 さて、こんな状態の中国ではありますが、1979年「ジミー・カーター政権は公式に中国を認めた」そな、さすが米様の正義でございます。更に「ホワイト・ハウスは、亡命生活二十年を迎えたダライ・ラマに招待状を送った」そな、さすが米様の正義でございまする。その後、1987年にアメリカ議会でダライ・ラマは演説を行い、「五項目の和平プランを提案した」この辺りから、完全に政治絡みが続くになるのか?皆それぞれに青年の主張ならぬ、主張と実行(行使できるパワーがあれば)をしていく感じでしょーか?例えば1987年にパンチェン・ラマ十世は全人代で「中国の対チベット政策を強く批判し、「殊民移動」とチベット人差別を告発した」そーですが、1988年「鄧小平は「大中国化」政策に着手した。つまり、チベットに大量の植民地開拓者を送り始めたのである」とな…

 またパンチェン・ラマの転生者探し、決定についての件も詳細は本書をドゾ。現在に至る諸処のチベット関連ニュースについても本書をドゾで、まぁ本当にこれが現実かという世界ですよねぇ…ただこれさえも「亡命チベット人たちの運命は、クルド人や新聞の一面にもめったに登場しない抑圧された少数民族からすれば、羨望の的であろう」になってしまうのが、今この世界の現実なんですよ、奥さん(誰?)

 駆け足で読み進んでまいりましたが、これでも本書のほんの一部…実際ハードカバーで600ページ弱あれば、もーお察し下さいでして、興味のある方は本書をドゾ。というより、中国と国境を接している国の人々は目を通しておいた方がいいと思われ…中国と中国人との実態もありますが、その時欧米は、国連はで、政治と歴史とはまさにカオス…この中で正気を保っているダライ・ラマ十四世、人生の修羅場をくぐっている人はつおい、本当につおい…

 「外を治め、内を平穏無事に保つなど、聖人でなければかなわない」と、あったりして、成程儒教ってか(笑)、お後が宜しいよーで…

 目次参照  目次 国外

|

« 発見は誰か一人の業績であることはめったになく、発明にいたってはまったくそうでない(笑) | トップページ | にっぽんのお蕎麦屋さん(笑) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

国外」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 正直しんどい…:

« 発見は誰か一人の業績であることはめったになく、発明にいたってはまったくそうでない(笑) | トップページ | にっぽんのお蕎麦屋さん(笑) »