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2014年9月25日 (木)

されど行うは神なり…

禁忌の聖書学  山本七平  新潮社

 どゆ本?というとどゆ本なんでしょー?いや、聖書を中心したお話だという事はよく分かるんですが、キリスト教、知っているよーで知らない世界というか、旧約聖書にいたっては、何でやねん?の何が分かっていない己に気付く始末…ユダヤ・キリスト教的エピだと理解していた事が、その実、それ聖書に掲載されていませんよ、な世界だったりして(笑)まさにそーだったのか?の嵐?

 てな訳で、内容は非常に濃いぃのではないか?と推察するんですけど、どこがやねん?と言われても、ここですっと指摘できる能力が己にないので(泣)いつもよーによく分からない時は、目次に逃げるで、本書は六章に分かれていて、裏切者ヨセフスの役割、マリアは"処女"で"聖母"か、「ヨセフ物語」は最古の小説、結末なきヨブの嘆き、「雅歌」の官能性、過越の祭と最後の晩餐、のラインナップ…分かる人にはこれだけで分かる構成か?

 で、ヨセフスって誰?と、これまた聖書音痴の人間は思うが、ちなみに自ら自伝を書いているよーなお人だから、それだけでもこれまた分かる人には分かるよーな(笑)本名はヘブル語でヨセフ・ベン・マッタティアス、紀元37-38年生まれ、亡くなったのは紀元102-105年の間で本書によると「新約聖書の大部分が成立した時代に生きていたことになる」とな…彼の半生についての詳細は本書をドゾですけど、どゆ人というと「ヨセフスという人間があらゆる点で大変な自信家で自己宣伝屋だということである。「うぬぼれの塊」と評した学者もいるが、彼は生涯この自信家的態度で押し通し、いかなる時にも断固として自己を正当化している」よーなお人だったとな…こーゆー人が「ユダヤ古代史」を書き残し、それが現在まで連綿と続く訳だから、本の評価って書き手の人格とは反比例するのが多い気がするのは気のせいか(笑)

 ちなみにこの方、あのユダヤ戦争の当事者でもあるんですよ、奥さん(誰?)歴史的には対ローマ帝国との戦争ですが、「もう一面ではローマと手を結ぶ上層階級と下層階級の戦いでもあった」とな…何かこれはもー今につながる話じゃまいか(笑)セレブはいつも大国にくっついてボロ儲けって(笑)富の再分配はいつももめごとの元なんですよねぇ…

 その時ヨセフスはどーしたか?というと革命派、過激派にくっつくんですね…「表面では彼はユダヤ戦争のリーダーの一人だが、内心はあくまでも、親ローマ派であって、過激派を嫌悪していた」とな…どゆ事というと過激派にくっついてローマとの停戦役を務めて、漁夫の利でオレ一人のお手柄万歳を目指していらっさった模様…成功すれば先見の明がある政治家?リーダー?トップ?という事になる訳で(笑)

 アリス的に聖書…うーん…英都大卒のアリスですから聖書を見た事ない訳がない訳で、むしろ例の雑学データベースで読破してそーだしなぁ(笑)アリス視点の聖書解釈というのも気になるところではありますが?如何なものか?

 さて、上述のヨセフスですが、くじびきと自決のとこの件は出来過ぎた話じゃまいか?で、この後のウェスパシアノスとの対面の件とか、窮地のとこで舌先三寸で切り抜けているよーに見えるのも気のせいか(笑)結局、ユダヤ戦争のリーダーの一人でありながら、のうのうと生き延びてローマ皇帝と懇意になり、その後三代ウェスパシアノス、ティトス、ドミティアノスの治世を生き抜くことになる訳だったりして…

 で、このユダヤ戦争後の「全ローマに充満した反ユダヤ的な空気に対抗し、アンティセミティズムの元祖というべきアビオーンに徹底的に反論し、同時に自国の歴史と自民族の偉大性をローマ世界に認めさせようとあらゆる努力をした」結果の一つが「ユダヤ戦記」「ユダヤ古代誌」という事になる模様…何かどこの国も自国をアピールする時は必ず、こんなにこんなにこんなに歴史のある国、国民なんですよぉーっとなるのは二千年前もかわりなしみたいです(笑)

 でで、他国、もしくは他民族に対しての偏見もこれまた二千年前もかわりなしで、当時のローマはどーだったか?というと「蛮族は普段は四つ這いのくせに、ローマ人の前に来ると二本足で立ってみせる」とゆー蔑視、偏見がまかり通っていらっさった模様…結局どこも多かれ少なかれ選民思想ってか?

 ででで、ユダヤ万歳の世界を展開していったヨセフスですけど、詰まるところそれは「ユダヤ人が偉大であることを強調すればするほど、それは逆に、それを圧倒したローマ人はさらに偉大だということになり、それを指揮したウェスパシアノスとティトスは史上無比の名将だということになるからである」とな…自分を持ち上げて、相手も持ち上げる、両者ウィンウィンで、最早太鼓持ちの鑑みたいな人だったのか(笑)

 まぁユダヤ問題は今も昔もむつかしという事でしょか?当時もイスラエルの地だけでなく各地に住んでいたし、ユダヤ戦争後は本当に離散する事になる訳で…で、ユダヤ戦争中もそれぞれ各地にいた同胞はどうであったかと言えば、決して一枚岩だった訳でもなし…でしてこの辺りの詳細は歴史書をドゾ。ですが、本書の一例からするとギリシア化したユダヤ人の場合はどーだったか?といえば「少なくとも彼らは故国の政治的動向や同胞の運命には無関心で、ユダヤ戦争中も全く援助も協力もしようとせず、それどころか亡命してきた過激派を遠慮なく捕えてローマの官警につき出している」とな…

 話をユダヤ古代誌に戻すと、結局、旧約聖書より「「ユダヤ古代誌」の方が読みやすかったに違いない」となって、読み継がれていくし、「二十世紀のハリウッド映画「十戎」にまでヨセフスの創作の物語が入って来ても当然といえば当然である」に至る訳だったりする…あのサロメもマルコ福音書に出てくるけどヘロデアの娘であって名前は出てこない…その名前はどこからと言えばユダヤ古代誌からなんですね…

 よーは補完関係というか、ニッチ産業というか、かゆいところに手が届くというか、をやったお人という事なるのかなぁ?これが異端にならなかったとこが、実にヨセフスらすぃとゆーとこだろか?とゆー第一章だけでも凄い話でして、目から鱗でございます。それが他にも五つあると(笑)

 マリアのとこでは聖母の概念についてかなぁ?ルカとマタイでは受胎告知だって違くね?マタイの場合は「「受胎告知」は、夢の中で未来の夫ヨセフに告げられているので、マリアには何のお告げもない」になるそーな?そーだったのか?聖書?イエス出生の秘密というか、本当にとこ?どよ?という事になるんだろーけど、こちらも詳細は本書をドゾですが、それにしても「旧約の人物はすべて普通に出生し、ただ神からの召命で特別な任務と、それを果たす能力を与えられるだけである」なのか?

 も一つが私生児の概念…現代ロシアの例が出ているのですが、そちらの詳細も本書をドゾですけど、「父称が姓のかわりをする社会で私生児がすぐにわかるのはユダヤ人も同じであった」って、そーだったのか?で、イエスは何と呼ばれていたか?マルコ福音書に「マリアの息子」と出ているとな…ヨセフの息子とは出ていない訳でこれによってイエスは私生児扱いだったとゆー事が分かるとな…聖書パネェ…ちなみにマタイ福音書とルカ福音書の「食をむさぼる者、大酒を飲む者」というイエスを誹謗する言葉も「私生児を表すことを指摘している」事になるそな…恐るべし聖書…どゆ事かというと「イエスがヨセフの実子ではなかったこと、いわばヨセフは自分の子と認めず、周囲もそう見ていたことを示している」って、これまたそーだったのかぁーっ?

 この辺りの取り扱いはユダヤ教徒か?キリスト教徒か?で解釈がかなり違ってくるという事になるんだろーか?ユダヤ教的には「イエスを私生児とし、タルムードには「姦淫の女の息子」「娼婦の息子」とさえいわれている」ってホンマでっかぁーっ?聖母マリアはどこに?もひとつイエスは何人か?で「イエスをユダヤ人だと考えることは、ヨーロッパ人には抵抗があるらしく、先ごろスペインで日本人がイエスはユダヤ人だといったところ、相手は激怒として、「冗談じゃない、神の子だ」と言い返してきたという話を聞いた」とな…となると、マリアも何人?なのか?とゆー素朴な疑問が?ユダヤ人じゃなくて聖母になるのだろーか?この辺りのキリスト教徒的感情?感性?もまた一段、二段とありそーな予感?

 他に出エジプトではなくて、入エジプトなヨセフ物語とか…詳細は本書をドゾですけど、何かこれ見て思うのは兄弟間の関係は日本で言うなら因幡の白兎的なソレか?男兄弟いぱーいで兄ばかりの下の弟って虐げられるのが普通だったんですかねぇ?切って捨てようホトトギスみたいな?も一つそのヨセフと兄弟達の父ヤコブの件は、こちらは日本でいうとこのニギギノミコトのとこでしょか?何がと言えばイワナガ姫とコノハナノサクヤ姫のとこと被らないか?どゆ事というとヤコブは美女ラケルを手に入れたいために、その父にラパンに七年無料奉仕をしたのにおしつけられたのは「不美女の姉レア」、更に七年無料奉仕をしてやっと美女のラケルを手入れたとな…

 何とゆーか男の本音ダダ漏れで、ブスはいらねー、美女欲しいを欲望のまま突っ走った感じでしょーか?で、ヤコブには12人の息子が生まれる訳ですが、上から順にレアとビルハ(ラケルの侍女)ジルバ(レアの侍女)の子で最後の二人がラケルの子となる模様…でもって、己の気持ちに正直な父はラケルの二人の息子、特にヨセフを猫かわいがりするに至ると…となれば兄達が面白くないのは当たり前か?でもだからといって空井戸に投げ込んで、通りがかった隊商に弟を奴隷として売り飛ばすとはこれ如何に?

 まぁ物語的にはここまでは前振りで、これからエジプトを舞台にしての話の方がメインなるんですが、いやぁヨセフ物語パネェでございます。ちなみに当時の豆知識的なとこで「「エジプト人は牛以外は飼わず、「羊飼はすべて、エジプトびとの忌む者」だったのである。彼らは遊牧民を差別し、決して同じ食卓につこうとしなかった」とな…何かこのエジプトとユダヤ・キリスト教の関係って、イスラムとゾロアスターの犬の関係に近いものがあるよーな気がするのは気のせい?

 さて、この父子、兄弟たちの和解の件の詳細は本書をドゾ。いや、実にリアルっすって事なんでしょかねぇ?ヨブ記についての詳細は本書をドゾ。この時の悪魔は神の対立概念ではなくて、「ユーモアなきメフィストフェレス」的なソレなんですよねぇ…

 こちらでおとろしーと思わされたのが「正義は必ず勝つ」「正直者は必ず報われる」でしょか?ちなみに「この言葉を裏返すと恐しい。というのは、「敗れた者は必ず不義」で「報われなかった者は不正直」となる」でしょか?成程、どこかの国が正義の国で、常に正義の戦争で、常に(自称)勝利しているのもよく分かるってか(笑)ヨブ記とはまさに正義とは何か?じゃね?と思うのは穿ちすぎか(笑)

 雅歌についての詳細は本書をドゾ。まっ愛だろっ愛でしょか?二人の為世界はあるのぉーってか?まぁそれはともかく「ユダヤ人は、昔は、三十歳になるまでこの書を読むことを禁じていたといわれる」って…まっ、そーなんですよ、奥様(誰?)

 最後の章の過越の祭の件も本書をドゾですが、最後の晩餐の舞台が過越の祭とは知らなんだ?ちなみに過越の祭りとは何ぞや?というと「エジプトで奴隷であったとき、神により救済されて約束の地に導かれた歴史的体験を追体験し、同時に次の世代に伝え、さらにエルサレムへの帰還の決意を述べて終わる」というのが現代では一般的らすぃ?とはいえ、イエス当時の過越の祭は今と多分違うはずで、というのは「当時、人びとは「約束の地」に住み、神殿があり、祭にはそこに集まり、ついで家庭でも祝われた」とな…

 でまぁ現在は過越の祭の旅に「来年こそはエルサレルムで!」と「二千年近く」「言いつづけて来たのである」って…うーん、まるで長州藩のお正月の挨拶のよーじゃまいか?こちらは徳川は潰すまいか?まだ早いと300年近く言い続けてきた訳で…どこも追われた方は、こーなるのが常道なんでしょか?

 で、元は出エジプトで、エジプト脱出記念日みたいなものか?艱難辛苦ご先祖様は乗り越えて現在に至るんだよの世界っすかねぇ?ちなみに「前に曽野綾子氏は、「アラブ人は出エジプト記を読むと一番よくわかる」といわれたが、確かに彼らには、苦しみから逃れるためにはどんな約束もするが、苦しみが去ればケロリと忘れてしまうところがある」とな…これまたちなみにその現代版が「さすがのソビエトも大英帝国も現代のファラオ、ナセルやサダトにはかなわなかった。スエズ運河もアスワン・ハイ・ダムも、多量の軍用装備もきれいに召し上げられ、さんざん悪口を言われ、平然とアメリカ側につかれてまたそこから多額の援助をせしめているのを見ながら、指一つ動かすことはできない。こんな芸当は到底カストロにはできまい。もちろん、古代のファラオもこれに似ていた」って…そして今、その米も…因果は巡るってか(笑)

 まぁとにかく「無料で酷使できる奴隷労働者を、無償で国外に開放する専制君主はいない」という事でファラオは彼らのエジプト脱出をなかなか許可しないとな…それでも事が「長子殺戮」に至って、出て行ってくれっとなった模様…「彼らは「われわれはみな死ぬ」と思ったからである」とな…で、モーセの十戎に続くなんですね…聖書って歴史ドラマだったのか?

 さて、話を最後の晩餐に戻して、あれは一体何時なんだ?という素朴な疑問が本書のメインか?というのも「マタイ、マルコ、ルカの三福音書では、イエスはニサン月の十四日に過越の祭を祝い、翌十五日に十字架につけられ、一日おいて十七日に復活したことになっている」そで、「ヨハネ福音書ではその一日前の十三日に最後の晩餐を行い、その翌日の十四日すなわち過越の祭に十字架につけられ、そして一日おいて十六日に復活したことになっている。そしてパウロも明らかにこの見方に立って、コリント人への第一の手紙で次のように記している」となるそな…いったいどっちが正しいんだぁーっ?

 さて、前者だと最後の晩餐は過越の祭の晩餐という事になって、後者だと単なるイエスのお別れ会、夕食会となるのだろーか?それとも過越し・イブなんてのが当時あったのか?うーむ…ついでに日にちが決定しないと、この後の復活祭はいつですかぁーっ?な話にも発展する訳で、さて、この謎はどーなるのか?いうと…

 多分、カレンダーは一つではなかったというのが真実じゃね?と…カレンダーは一種類ではなく、教派によって日付が違うと…うーん、ここでミステリーならアリバイ工作のトリックが一つできるよーな気がするが、バリサイ暦ではありません、クムラン暦を使用しましたね、奥さん(誰?)とか(笑)どーだろ?アリス(笑)取りあえず「現代ではイエスの処刑は紀元三〇年とするのが定説だが、それはニサン月の十四日が金曜日になるのがこの年だからである」とな(笑)

 と、何となく聖書に対して思い込んでいたとことか、謎だったとことかが、出ていますの世界かなぁ?二千年前のソレとなれば、旧約ならばもっと前だし、その後の正典に入れられたの?ないの?とでは、これまたアレで差異はどこにいったというより、差異があるのが当たり前な世界なんだろか?聖書、奥が深い…

 とゆー訳で、興味のある方は本書をドゾ。他にもエピ満載でございます(笑)

 目次参照  目次 文化・芸術

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