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2014年12月22日 (月)

本来的自己?

イエスとはなにか  笠原芳光 佐藤研 荒井献 吉本隆明 岡井隆 木下長宏 磯山雅  春秋社

 どゆ本というと、著者達による鼎談集でしょーか?それぞれに専門ありで、3人位でお話してると(笑)で、最初が聖書学、次が思想、文学、美術、音楽と続きまして、最後にまとめ的なお話になると…本書の構成からすると、最初の二人の著者がメイン(司会?)的な存在で、残りの五人がゲスト的立ち位置になるんだろーか?

 で、お題がイエスとあるよーに、本書はある意味イエス学というか、イエス個人について言及している感じかなぁ?だからキリストではないし、キリスト教でもないんですよ、この一線について、どーよと多分問題を持ち上げているのではなかろーか?

 女子ぃ的な立場でいけば「家父長的な社会のなかで、どうしてあれだけ女性に対して優しくなれたかを考えると、やはり彼のなかに何かあるんですよ」(@佐藤)かなぁ(笑)成程、イエス個人は、元祖フェミニスト乙だったのだな(笑)

 後「イエスはともかく権力を批判して、権力を倒そうとしたけれども、しかし権力を取ろうとはしなかった」(@笠原)って、これまたイエスとはマッチョ思考ではなかったとゆー事らすぃ(笑)ある意味、殿方として非常に珍しいタイプの人だったんじゃまいか?ですかねぇ…

 アリス的にイエスとなると、やはり二人の母校英都大という事になって、こちらプロテスタント系の大学ですから、関係あるかといえばあるんじゃね?になるのだろーか?ちなみに、神学部もあるはずでとなれば、専門家もいぱーいってか?

 ちなみに哲学と宗教の違いとは何か?で「哲学は、「とは何か」と徹底的に考えるもの、宗教には何らかの根源的なリアリティがある。とかく、宗教といえば、デュルケーム風に言えば教義・儀礼・教団、この三つですね」(@笠原)となるそな…うーむ、そーだったのかぁーっ?

 後アリス的なとこではバッハの話が出てくるとこでしょーか?「バッハにおいては二十世紀に展開されてくる人間イエスの視点が先取りされている、あるいは予感されている、と言えるのではないでしょうか」(@磯山)とな…バッハの二つの受難曲の中のイエスも「言葉を語るイエスであって、たえずレチタティーヴォとして作曲されている」(@磯山)かくて「最近の古楽器演奏では速いテンポで、軽く歌われるようになりました。すると言葉の語りかけるような効果が生き、イエスのイメージも、人間的な、やわらかいものになってくる」(@磯山)って、そーだったのかぁーっ?

 ちなみに「バッハの作品において、イエスは畏怖の対象というより、愛の対象です」(@磯山)で「バッハは、イエスを必ずバスで歌わせます。バッハ自身も、バスだったと言われています」(@磯山)とは知らなんだ…そーいや、子供の頃、聖楽隊に所属していなかったっけ?バッハ?オルガニストとしてもアレだったけど、声楽的にも素養があった訳で、ヴァイオリンも得意だったはずだから、ある種、音楽の万能の人だったんだろーか?バッハって?

 でもって、これだけ宗教曲を作曲しているバッハだけども、「バッハは、音楽を通じてたえず信仰を問い直しているように、私には思えるのです」(@磯山)とかあって、バッハ、むしろ理性の人だったのか?で、何故に准教授がバッハが好きなのか?は、これじゃね?かなぁ「バッハの芸術の根幹を成しているのは、やはり罪の意識なんですね」(@磯山)何とゆーか、准教授の生き方もある種重き十字架を背負っての世界だしなぁ…かくて「自省的な人はバッハ・ファンに多い」(@磯山)って…

 それにしても「バッハを近代の父と言えるのかどうかわかりませんが、ルネサンスの最後を後始末した、という感じがすごくするんです」(@磯山)の言は、これまた物凄く意味深だなぁと思うのは気のせいか(笑)音楽史的にはトップランナーな気がしていたけど、その実しんがりの人だったのか?バッハ…成程、音楽の父だなぁ(笑)

 さて、本書でいくとその専門家の話で一番トーシロがぴーんと来ないのが最初に出てくる聖書学のお話じゃまいか?で、その後の思想から辺りから、話が具体化していって分かりやすいよーな悪寒が(笑)

 で、イエス・キリストというけど、イエスはキリストではないというのが本書的に、そこが一番大事ぃなとこらしくって、どこでも個人としてのイエスを前提にしている訳だったり(笑)「キリストというのは「油を注がれた者」という意味の言葉です。それは頭に香油を注いで任命された王のような存在、宗教的権力者です。ところが、イエス自身はキリストであると言わなかった、考えなかっただろうというのが、今日の新しい聖書学の歴史的研究の成果ということになっています」(@笠原)とな(笑)

 これをまた「要するに平野謙的には「女房的リアリズム」というやつで、いくら偉い男だって、女房から見たら、ただの男、くだらねえ男で(笑)、寝転んでごろごろしているだけで、手伝いもしないでちっともいいところないじゃないか、という評価になっているのと同じ」(@吉本)になっちゃうというか、底はつながっているになるのかなぁ(笑)まぁそこを自覚して、受け入れている男性ってなかなかいないよーな気がするが(笑)何とゆーかオレはいつでもどこでも偉いんだってのが本音じゃね(笑)

 で、何もこれは家庭内だけの話ではなくて、組織と名がつくもの皆同じじゃね?がちなみに共産党に入党した場合「それが宮本顕治であったり、何々であったり、つまりどうってことなかった。内の組織もまた階級そのものであって、上下関係そのものが通用していて、少しも理想的じゃなかったというような目にあった」(@吉本)とな…階級闘争って…結局「ある宗教宗派でもいいし、あるいは政治党派でもいいのですが、それの一員になって入るということと、単独者として同じようなことを考えているんだけど、自分の上にも下にも何かがあるということはだめだという考え方と、どう違うんだと考えた場合に、あっさりした言葉で言ってしまえば」(@吉本)一人は「寂しかった」んじゃまいか?で、どこかの組織に属すれば「入ってみたらあまりに現実が言っていることと違うので、もうお話にならないというので出てきちゃった」(@吉本)に心ある人というか、志のある人なら、そーなるよ的な話か?

 では、何故に人は組織に属するか?といえば「つまり一人じゃ何もできないということがあるんですね」(@吉本)は、これまたよくある話じゃまいか?と思っていたら、ところが「価値観でいうと一人よりも多勢のほうがいいんだという考え方は政治家特有のものであって、あるいは政治的運動家特有のものであって、普通はそう考えるべきものじゃない」「一人では何もできないということはないのです。つまり一人でできなければ十人いたってできないのですよ。一人でできれば、それは十人がやることができるんです。それはもう間違いない真理であろうと思っているわけです。そこじゃないんでしょうか」(@吉本)とな…何とゆーか、目から鱗のこの真理(笑)ここだけ読んだだけでも本書の価値あるんじゃまいか(笑)

 ちなみこの論理で振り返るイエスの生涯「私が思い出したのはイエスは家を出ましたね。これは父親が早く死んだとか、母親と仲が悪かったとかいろいろあるだろうと思います。そしてどこに行ったかというと、洗礼者ヨハネの教団に洗礼を受けて入った。これはイエスが寂しかったからかもわからない。ところがヨハネ教団に入ってみたら大したことなかった(笑)。それでヨハネ教団から脱出して、今度は吉本さんではないけれども自立してやろうと思って新しい教えを説いた。そこへ弟子ができて集まった。ところが弟子が自分をほんとうに理解していないということがわかったので、それからはもう弟子も頼りにならないというので、また一人になって最後は殺されたというふうに思います」(@笠原)って…何かもー身も蓋もない表現(笑)これ、キリスト教徒的にはどーよじゃね…まぁ本書はキリスト教的、もしくはキリスト教徒的というより、キリスト教と切り離してのイエス伝的なとこがポイントとゆー奴だからなぁ…一個人としてのイエス…と割り切れるのはやはり傍観者的立ち位置だからだろーか?

 ちなみにそんなイエスの実家の方はというと「イエスの家族のほうもいったん崩壊してしまうんですね。彼の死後みんなエルサレムに行ったか、あるいはイエスのことを伝えるとか言って放浪に出てしまうとかで。ナザレでは彼の家族は雲散霧消で、あの家は廃屋になったのでないかと思います。そういう意味では、家族を捨てるという当初のイエスの行動は、結果的には家族破壊的に働いていますね」(@佐藤)って…個としてのそれはアレだけど、結果、世界は一家人類は皆兄弟の世界へってか?まぁ広い世界観を開いたお人という事になるんだろーけど、それでも最後は一人って、イエスの生き方も何とゆーか凡人にはアレだなぁ…

 一人であるか?多であるか?もしくは群れているか?的なとこになるんだろーけど、時代を越えてどんな組織でも属している人の価値観は「偉い人は偉いんだと思ってると思います」(@吉本)なとこかなぁ?「その価値観は絶対動かないんです」(@吉本)「判で押したようにみんな、なんでおまえ、威張っているんだというくらい、自分は民衆の前衛なんだ、民衆を指導する場所にあるんだということは疑っていないですね」(@吉本)は、元祖上から目線乙かなぁ?まぁこれは究極のマッチョ思考で、それを正当化するのが、宗教なり哲学なりの信念ですから(笑)私は正しい事をやっている、しかもそのお墨付きがあると過信している時の人間程、そーじゃね?じゃね(笑)

 最近流行りの愛国心ですけど、「ヴェーユは「愛国心を持つ必要はない」という。愛国心ということについて、「カイユ」のなかで「隣人愛以外の愛を抱く時ではない。国家は隣人愛の対象とはなりえない。だが永遠の伝統を継承し保存する場としての「地域」は対象となりうる。どのような「地域」も隣人愛の対象たりうる」と言っています。地域と訳されている国という意味と、国家、政治的な経済的な国家とは違う」(@笠原)辺りも、何だかなぁ…いや、組織の属する人間が、口にする愛って愛国心しかりなんですが、何でこーぺらく聞こえるんだろー?言葉で商売して群れている人ほど言葉に重みがないよーな気がするのは気のせい?

 さて、本書のある意味メインであろー聖書学のとこは、本書をドゾ。いや、これもー読み流せるレベルじゃないと思われ(笑)個々人に思うところはあるだろーし、また研究もいずこの国も組織も人間も皆それぞれにの世界みたいだしなぁ?しかも「既成の神学的な枠組みではやっていけないというのはみんな知っているわけです」(@佐藤)になっちゃう訳で(笑)

 ただ、70年代以降、もしくは80年代以降、「歴史学文献学のなかに社会学を加えた、方法的に」(@佐藤)というのは、20世紀後半は社学的な隆盛もあったんだなぁと…でもまぁ世紀末からこっち社学もなぁというか、社会学者もなぁ…的な雰囲気がしないでもない気がするのも気のせいか(笑)

 も一つは、宗教集団的にどよ?で女性問題でしょか(笑)「二世紀になって女性を閉め出して、正統派の中央部の人たちが、教会の体制を作り、全体の信仰箇条というものをこしらえていくわけですね。そのなかで女性というものが省かれていくわけですよ」(@佐藤)とな…まぁこの女性問題は21世紀の今も尾を引いている問題だろーなぁで…それにしても何でどこの宗教集団も女性を排除する方向に進むのか?謎だなぁ(笑)

 さて、他にもたくさんエピ満載ですので興味のある方は本書をドゾ。

 目次参照  目次 文化・芸術

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