« 日本の音? | トップページ | ターカリー? »

2016年11月28日 (月)

重要無形文化財保持者?

雅楽縹渺  東儀俊美  色心文庫

 うーん、いやもー、これは、まずは読んでくらはいとしか言いよーがないよーな…とはいえ、B5のハードカバーですから、本を前にするとちょっとひるみますけど(笑)でも、平易な文章なので読みやすく分かり易いのだと思われかなぁ?古き良き教科書、お手本のお手本みたいなノリでして、これが音楽の授業の教科書ならば、副読本でもいーけど、多分、音楽に対する感覚が大分違ってくるんじゃまいかと思うほど(笑)まっ日本人なら知って損はないお話じゃまいか?

 雅楽というと、でもそんなの関係ねぇー(死語?)な気がしないでもないですけど、本書を拝読していると、結局、日本人が一番長く続けてきた音楽って事にならね?って事にならね?

 まぁそんな雅楽ですけど、「普通の雅楽は何拍子か決まっていて、四小節か八小節で区切りになっているのだが、雅楽の序という形式は無拍子なのである」の件からして、そーだったのか?雅楽?とゆーか、拍子?もー、雅楽の基本からして知らなかったの世界ですから…先はとほいってか…

 なので本書に書かれていることはどこを読んでもそーだったのか?と新しい事の発見ばかりなりの世界でして、いやぁマジであなたの知らない世界ですけん(キパッ)例えば言われてみればその通りなので、「群舞というのは、速度が速くて拍子がはっきりしている方が合わせやすいのである」そな(笑)成程、シンクロ(笑)

 で、その舞も、雅楽では大まかに二種類に分けられるらしく、「「国風歌舞」の歌と共に回れる舞」と「舞楽と呼ばれる「唐楽・高麗楽」の、楽と共に舞われる舞」になるとな、そーだったのか?舞ぃーっ?とにかく、詳細は本書をドゾ。ちなみに舞と踊りは違うそーです(キパッ)

 アリス的には、雅楽、四天王寺キタコレになるんだろーか?の前に、多分、本書で言うと、「秦河勝と天王寺楽所」の章のまるまる一章が全てじゃまいか?

 まず「中世以降、雅楽は三方楽所(京都楽所、南都楽所、天王寺楽所)によって、夫々宮廷や社寺の庇護のもとで伝承されてきた」そで…「天王寺楽所は、他の楽所と少し違う性質を持っていた。それは先ず「秦河勝を始祖として素性を名乗る一族のみで構成されている」という事である」って、ホンマでっかぁーっ?

 更に「所属していた四天王寺からほとんど出ることなく、「天正の取り立て」のあった安土桃山時代(十六世紀)くらいまで、少数の楽人を除いては他の楽所との交流を原則として持たなかったこと」もあるそーな…凄いな、四天王寺楽所村(笑)

 さて、秦河勝については歴史上の人物としてかなり有名ところで今更ですので、詳細は本書をドゾ。ただ、アリス的には、聖徳太子との関係キタコレで、そこだけチョイスすると、「秦始皇帝から十五代目といわれる「秦造河勝広隆」が華々しく歴史の舞台に登場するのは、聖徳太子のスポンサー的存在として活躍を始めた推古天皇の五九○年頃かららしい」とか、「秦造河勝広隆の活躍が目立ち始めるのは、用明天皇の五八七年、厩戸皇子(後の聖徳太子)のそば近く仕えていた秦河勝が、大連物部守屋討伐に臨んだ頃からである。その後次第に聖徳太子の信任を得、太子の影の大蔵大臣的存在になってゆく」とか…

 ちなみに秦河勝って幾つじゃ?では「「聖徳太子の側近くに仕えていた」という処から想像すると太子より年上だったのではないかと考えられる」とな…

 そして「太子亡き後、蘇我氏の勢力はますます増大し、太子の遺児である山背大兄王が蘇我入鹿に討たれた。太子の寵臣であり常に太子と共にあった秦河勝は身の危険を避けるためであろう、中央政界から姿を消し、難波津の港から播州赤穂の坂越という処へ船で逃れたとされる」そな…貴人は皆、須磨流しってか(笑)尤もその船はうつぼ船と言うから、死出の旅というか、死にましたの偽装工作の意味合い強しという事らすぃ…昔の政治ってでっとおああらいぶやねんってか…

 また「推古天皇の十一年(六〇三)、聖徳太子が側近に「我は尊い仏像を持っている。誰かこの仏像を祭る者はいないか」とのたまうた時、秦造河勝が進み出て「私が祭りましょう」といって秦氏の領地だったところにあった「蜂岡寺」(現在の広隆寺)に祭った」とか、

 「四天王寺が創建されたとき、聖徳太子は伎楽と雅楽を寺院の法要を厳かにする為に奨励した。それを受けて河勝は自分の子供四人、即ち次男・三男・五男・六男を四天王寺の専属楽人とした。これ等の子孫が後世「天王寺派楽人」となり、現在の「素姓薗・同東儀・同林・同岡」と続いているのである」って、ドンダケェー(死語?)

 これまたちなみに「秦を名乗っていた楽人の中で、名前に「兼」の付いているのは現在の東儀の先祖であり、名前に「公」を持つのは薗の先祖だと考えられる」そな…ちなみにちなみに、いつから薗・東儀・林・岡と名乗り出したかは不明なんだそな(笑)

 天王寺楽所に戻ると、「中央との交流も少なく、左右両方の舞を伝承しながら独自に演奏活動を行っていた」そな…つつがなきやって事で有名どころの舞人、楽人を輩出していた模様、こちらの詳細も本書をドゾ。

 ところが応仁の乱以後戦国時代キタコレで、京都は荒れているか?で雅楽も影響受けない訳ないやんけで、ようやく時代が落ち着いてきたかもの安土桃山時代、「弱体化して衰微した都の雅楽を復興する為の梃入れとして朝廷は「天王寺楽人」と「南都楽人」数名ずつに官位を与えて都に招いた。これが「天正の楽道取り立て」であり、以降天王寺楽人も度々都での演奏が行えるようになった」とな…

 更に江戸時代になると「日光東照宮の法要のため江戸に下向したり、楽人によっては教授のため山陰の島根の方まで足をのばす者もいた」そで、江戸後期にもなると「彼等の活動はますます盛んになって行く」そで、四天王寺の法要って相当に盛大なものだったらすぃ…こちらの詳細も本書をドゾ。

 そして時代は明治維新キタコレで、京都、奈良、大阪の楽所の楽人は東京に来なはれって事になったとな…いきなり来いとか、いきなり一緒にやれとか、いきなり合奏とか、無理でしょって事で、この時のカオスについての詳細というか、すり合わせというか、つじつま合わせというか、落としどころについては本書をドゾ。雅楽史的にも大きなターニングポイントって事になるらすぃ…一例をあげれば同じ曲でも、それぞれの楽所でちゃいまんがなってか(笑)

 天王寺楽派の歩みもパネェって事ですかねぇ…これが21世紀の今にも続いている訳だから、日本って…

 天王寺楽派的なそれでは「私の家は「三方楽人」の中の天王寺派で、明治以前は四天王寺に属していた」の件とか、「大阪方は専ら四天王寺に所属して、主としてこのお寺の法要の舞楽に従事していました。管弦の演奏は全然と言ってよいほどなく、その演奏は総て舞楽だった、と言えるでしょう」とな…

 他にアリス的というと、四天王寺関係のとこで、「兼好法師は「徒然草」で四天王寺の舞楽を絶賛しているが、今もこの寺に残っている石舞台は、通常三間四方と言われる舞台より大分大きい。昔から「天王寺派の舞は少し荒っぽいが舞振りが大きい」といわれる所以ではなかろうか」とな…そーだったのか?石舞台?

 また「「枕草子」には「落蹲は二人して膝踏みて舞たる」とあり、二人の舞を「落蹲」と言っている。四天王寺の江戸時代の演奏記録では舞人の人数に関係なく両方共「納曽利」になっている」そな…「「源氏物語でも「落蹲」という曲名は出てくるが「納曽利」という曲名は出てこないような気がする。もしかしたら、納曽利と言っていたのは四天王寺派だけだったのかもしれない」とな…昔の名前で出ています?

 更に「享保四年(一七一九)の四天王寺「御太子千百年御忌御法要」の項に、「万歳楽、常装束(襲装束のこと)・抱片肩担・冠・巻憥纓」また「賀殿・冠・巻纓・蚕絵片肩」などとあって、この時代になっても舞と装束が定まっていなかったことを伺わせる」とな…

 でもって「四天王寺のように雅楽を仏教の法要に結びつけて、一般大衆に公開していたところなどは、華やかな装束が不可欠だったのと、地下楽人は装束を個人で用意する財力がなかったので夫々の団体で決まった装束を用意したのが最初だったのかもしれない」とな…まぁ雅楽、トーシロが見ても衣装代かかりそーだもんなぁ…

 曲では「「八多良拍子け」は、天王寺楽人だけが伝承して来たといわれる独特の拍子であり、この拍子で舞われる舞は、左舞の「蘇莫者」、右舞では「抜頭」「還城楽」「陪艪破」の計四曲だけである」とか…

 で、「「陪艪」という曲は「教訓抄」によれば、「天竺の曲で、班朗徳という人がつくり、曲は婆羅門僧正が伝え、舞は聖徳太子が守屋と対した時に舎毛音があって勝ったのを模して作る」となっている」そな…ちなみに聖徳太子が生きていた時代と曲がきた時代とあってないよーな話もチラっと出ているけど?そゆ事でって事か(笑)

 まぁ何にしても「難波の四天王寺や南都の興福寺などで雅楽の演奏は盛んだったが、京都との交流はなかったと思われる」そで…京都、大坂、奈良、昔は遠い関係だったのか?

 そんな天王寺派の楽人の名人では、東儀播磨守という篳篥奏者でしょか?こちらの詳細も本書をドゾ。

 他にアリス的というと、太閤秀吉キタコレで、鶏包丁だろか?「この式の起こりは豊臣秀吉公の時、正月に鶴を献上した者があり、その時初めてこの式が行われ、以後これを例として行われてきた」のとこでしょか?後光明天皇によって止められていた式を秀吉が復活させたとゆー事らすぃ…

 豆知識的には、雅楽ってその時の趣向というか、目的というか、ムードというか、儀式というかでチョイスするのもあると思いますらすぃのだが、その振り幅がやっぱパネェ…おめでたい時とか、祭りじゃー的とか色々あるんですが、極め付けは、「天変地異に奏する曲 蘇芳非 抜頭(日食等の時であろうか)」とか「逆乱祈祷に奏する曲 安世楽 「天慶二年(九三九)平将門・藤原純友の反乱の時、この曲を奏して太平を祈った」って…そんな時よーの曲までありますなんですよ、雅楽って(キパッ)

 更には、「「御神楽」という儀式は年に数回賢所で行われる重要な祭祀だが、新しい天皇が即位されてから最初の御神楽(御代替わりの御神楽という)と、伊勢神宮で二十年に一度の遷宮の時の御神楽には「秘曲」と言って普段は演奏されない曲が入る」そな…ちなみにこの秘曲とは「音を出さないで息を吹き込むだけで演奏するもの」らすぃ…それってていうか、何かもー雅楽って(笑)

 後は日本人が忘れてはいけない歴史的な事実として「アメリカ軍が進駐し、「太平楽と陪艪・久米舞」等は「太刀を抜くのは軍国主義につながる」という理由から司令部よりの命令で演奏出来なくなったりした時代である」じゃね?米の正義、どこまでもパネェってか(笑)

 にもかかわらず「進駐軍の某将校の奥さんというのが油絵を習っている。ある日、舞楽の演奏会に着て管方装束で笛を吹いている楽師の姿にすっかり感動して、「是非絵に書きたい」と主人の将校に話し、某将校から宮内庁に話が来た。当時進駐軍からの話では否とは言えない」ですからぁーっ(笑)

 それと、これからの雅楽って事で、一例としては「篳篥のリードを作る材料である葦が絶滅する恐れが出てきているのです。現在葦は大阪の淀川の河川敷で人間の手によって栽培されているのですが、後を継ぐ人がいないのです」とな…この手の話は枚挙につきないみたいで詳細は本書をドゾ。末端は切り捨てが、永田町と霞が関の正義だからなぁ…

 それにしても、現在でも楽部って女人禁制なのか?「女性の楽生を入れたとします。成績優秀で卒業し一人前の楽師になって何年かして「この度私結婚します。相手が九州のお医者さんなので退職致したいと思います」この女性に代わる楽師を養成するにはそれから七年かかるのです。一人ならなんとか遣り繰りもつくでしょうが、そんなことが毎年続いたらどうなるのでしょう。また、幸い、結婚してもやめないでくれたとしても、一年の育児休暇などを二人取られたらお手上げです。他にも体力的なこと、装束の種類と大きさなど問題は沢山あると思いますが、私見としては以上のような理由から今の定員制度のもとでは無理ではないかと考えます」なんだそな…うわーっ昭和のかほりが、というか親父臭漂っていますが、このご意見で何より分かった事は、楽部員がベストファーザー賞を受賞する事はこのままなら永遠にないなとゆー事でしょか(笑)

 他にもたくさんたくさん本当にたくさんエピ満載ですので、興味のある方は本書をドゾ。雅楽、奥が深すぐる(笑)雅楽、大本の起源はベトナムやインドなんだそな…でももー「源であるベトナムやインドを始め、中国や韓国でも絶えてしまったのに、日本だけに千数百年も残っている」って、何かそれが雅楽と日本を全てあわらしているよーな気がするのは気のせいか(笑)

 目次参照  目次 音楽

|

« 日本の音? | トップページ | ターカリー? »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

音楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 重要無形文化財保持者?:

« 日本の音? | トップページ | ターカリー? »