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2016年11月24日 (木)

衆人愛嬌(笑)

狂言三人三様 野村萬斎の巻  野村萬斎 土屋恵一郎  岩波書店

 うーん、所謂一つの役者本だと思われなんですが、本人よりも狂言にスポットライトが当たっている感じかなぁ?それと一昔前の本だから、全体的に若い感じとでもいおーか?今なら、また違った感覚で本書出来上がっていたんじゃないか?と推察するんですけど、どよ?

 で、まぁ、どゆ本と外野が説明するより、目次を見よで(笑)さぁ、あるべき場所に行こう! 蜷川幸雄、萬斎独言 語り手野村萬斎、伝統と現代、日本と世界 聞き手山口宏子、現在を生きる狂言師 聞き手土屋恵一郎、狂言三人三様 語り手茂山千作 野村万作 野村萬斎 聞き手・解説 土屋恵一郎、萩大名/靭猿/止動方角/舟渡聟・船渡聟/釣針/髭櫓/悪太郎/那須与一語・那須語、野村萬斎の世界。風姿あるいは萬斎の身体 渡邊守章、"聖"という異和 いとうせいこう、裏切りの表現者 伊藤キム、なんかヘンな彼がいい 夏木マリ、トリックスター萬斎 河合祥一郎、古典芸能の人、野村萬斎 網元尚子、あとがき 土屋恵一郎のラインナップ…他者が語る野村萬斎(もしくは狂言)と、狂言師が語る演目(もしくは狂言)といった構成か?

 そんな訳で、本書は狂言ファンと萬斎ファンでは受け取り方がちょっと違うんではなかろーか?と邪推しますた(笑)単なるファンブックではないよとゆーただならぬ気配が(笑)

 まぁ狂言について三人の狂言師が語っているとこが実に興味深いです。一つ一つの演目に歴史あり、思い出あり、思い入れありで(笑)例えば、萩大名のとこでは、野村家の公演を「観た茂山家の人々が、「おもろいですな」と大喜びした。おもしろいからもらいましょうというわけで、学校公演などではその台詞を入れてなさっているらしい。あの家にはそういう自由さがあるのですね。おもしろくするためには、非常に貪欲です」(@野村万作)とか、また、止動方角のとこでは「東京の狂言は、呼吸や様式性など一騎打ち的なものが強く出る。京都の狂言は登場人物同士が和みながらやる。茂山家の町衆の狂言というイメージが生きるのが、「千鳥」であり「止動方角」であり「素抱落」なのでしょう」(@万作)とか、悪太郎になると「四、五年前からは、浄土真宗のお墓のある西大谷(大谷本廟)で、お盆の時期に信者さんがお参りにくるときに、なんにもないとただお参りして帰るだけだから、そのときに狂言、しかも「悪太郎」を見せて帰らしたらいいということで、お堂の前に舞台をつくってやることになりました」(@茂山千作)とか、狂言って究極の今でしょ(死語?)なのかもしれないってか(笑)

 そんな訳で、「様式と写実が両輪で、そのバランスを取っているのが野村家の芸です。茂山家は写実のほうが勝るし、山本家は様式が勝る」(@萬斎)なのが各派の狂言らすぃ(笑)違いが分かる男の…

 アリス的に狂言…うーん…八角形や切り裂きジャックからすると演劇に興味がないとゆー事はないと思うんだが、古典芸能というと落語位しか出てきていないよーな気がするのは気のせいか?

 後は、海奈良の近松門左衛門から、靭猿の「この曲(中世の流行歌謡を組み合わせた猿歌)が元禄七(一六九四)年の近松門左衛門の義太夫節「松風村雨束帯鑑」に取り入れられ、文化十二(一八一五)年には歌舞伎舞踊の常磐津「寿靭猿」がつくられ、また天保九(一八三八)年に常磐津浄瑠璃事「花舞台霞の猿曳」が初演され、それが「新うつぼ」と称されて、狂言の歌舞伎化の先駆的役割をなした、とある」そな…

 他には言葉的なとこで面白(笑)関西人のアリスならばおもろいかには敏感なはずじゃね?で「「面白」とは、まさに闇の中で、蘇った太陽の光に顔を照らし出された時のような、単なる眼差しを超えて全身体的な強度となる体験を指している。そして、実は翁面に刻み込まれた「笑い」も、同じ根に繁っていたのである」(@渡邊守章)とな…皺にも意味があるってか…

 さて、他人語りの野村萬斎とは何か?ですけど、「萬斎さんの持つ狂言の身体には、二つの特徴があるように思われました。まず、現代演劇の身体と違って前傾している」「それによって太い首から出た声が共鳴して、鼓のようによく響く」(@蜷川)そな、そして「もう一つの特徴が、語尾です。発声の後半にかけて息が太くなっていくのと同時に、「ぉーお」と音が上がっていく」(@蜷川)と、どーもアクセントが後に来るとゆー事らすぃ…そーなのか?狂言?

 ちなみに「伝統を見きわめていくことは、ほんとうに難しい。たとえば、「近松心中物語」(一九七九年初演)は何度も俳優を変えて上演していますが、あっという間に様式化し、あっという間に腐っていきました」「俳優は型を決めるとそれを相手に要求し、すぐに固定化させる。初期の志もなにもなくなってしまうような無残な状態になる。だからぼくは、いま古典芸能と言われているものの型なんて、そのまま素朴に信じていません」(@蜷川)という事になるらすぃ(笑)

 「とにかく、萬斎さんは、ただぼーっと普通に立っている俳優とまったく違う。立っているだけで、ほかの俳優さんとの違いというか、身体から非日常を感じます。この非日常が演劇の本来の姿で、訓練を受けていない俳優は、みんな日常で立っているんですね」(@夏木マリ)とな…立ち姿で演者の技量が分かりますってか(笑)

 更に、「狂言の本当の楽しみ方がわからなくなってしまった現代人に、いかに狂言を自然に楽しませることができるか。萬斎の一連の試みには、こうした意識が貫かれているように思われる」(@網本尚子)という面もあるそな…何せ「狂言は、何の予備知識がなくてもわかる芸能、というわけではけっしてない。些細な舞台上の約束事やポイントとなる言葉の意味などを、あらかじめ観客にインプットしておくだけで、観客はより深く狂言を理解し、楽しむことができるのである」(@網本)とな…そーだったのか?狂言?

 また、狂言と演劇についてどよ?でも、「天に向かって神々に呼びかける言葉はぼくらの習慣にはない。神はむしろ地霊のように、あるいは地母神のように、大地に近いところにいるという感覚があるわけです」(@蜷川)ってのが欧米か(死語?)らすぃ(笑)また、伝統芸能も「いま、伝統芸能が語られるとき、老いていることを良しとする風潮があるが、ぼくはそれに対して、そうじゃない、もっと卑俗なことがあるだろう、と言いたい」(@蜷川)そな、清濁併せ呑むってか(笑)

 他にも「古典劇では、役者はあくまでも語り部で、作者の書いたことをそのまま声に出して伝える。観客が本を読む代わりに聞かせるという作業をするべきだという思いが、いま強くなっています。単純に言えば、作者の書いたことおりちゃんと言えば、観客に通じるんです。逆に、台詞を俳優が自分に引きつけて言う演技をすると、世界がすごくちっぽけになって、観ている人がそれを共有できなくなってしまいます」(@萬斎)って事らすぃ…型iには型の存在意味があるってか?

 また、「ことさら奇をてらった新しさを追うよりも、何度も繰り返し上演された作品の中にあることで観客をちゃんと説得し、ものを考えてもらうことが大事。ストーリーの矛盾はどうでもいいのかなという気がします」(@萬斎)にもなるらすぃ…

 でもって、「ギリシア悲劇は能・狂言に付かく、シェイクスピアは歌舞伎に近い」(@萬斎)とな、そーだったのか?全世界が舞台?

 「一九六〇年代の末以降の世界の舞台芸術において、「言葉の廃絶と身体性の復権」が主要な命題であった」(@渡邊)そで、「その際、一九三〇年のアントナン・アルトーの「残酷の演劇」を起源とし、一九六〇年代にポーランドの演出家イェジュイ・グロトフスキによって方法化された「肉体の演劇」は、言葉つまり文節言語を廃絶するために、それを「叫び」にまで追い詰めて、舞台の上に曝された裸体の深層から、その叫びを引き出そうとした」(@渡邊)ってムンク?叫んでみたとか?「もっとも、その逆転が「ポスト・モダン」の表層的差異の遊戯だったと書いたとこで、作業の現場の問題形式と重なるとは限らない」(@渡邊)だそーだけど(笑)もしかして、はいここわらうとこ、なんだろか?うーん?

 動き、身体についてになるのか?で「西洋的な笑いとは違うんです。西洋の場合は、たとえばコメディアンでも、おかしな顔やへんな身体の動きを使ったりするよりは、言葉で知的な笑いをとる。彼女はぼくの作品を見て、身体を犠牲にして笑いをとったり何か自分の表現にしたりするのが、とても日本人的な感じがしたと言っていて、なるほどそうかと思ったんです」(@伊藤キム)とな…まぁあちらは、初めに言葉ありきの国の人だものだよなぁ(笑)

 「ぽんぽんと早口でまくし立てる現代劇の台詞術を聞いていると、間がなくて、お客さんがイマジネーションを働かせてクリエイトするという段階になるのかな、と思います。それでは観客としては、俳優がこう解釈していますということを受け止めるしかないじゃないかと」(@萬斎)の件は、欧米って空間嫌悪症というか、恐怖症というか、壁でも、言葉でも埋め尽くさないとあきまへんえじゃね?何でもたくさんある方がいいってか?

 そして狂言はとゆーと、「一般に狂言はリアリスティックだと言われる。確かにそこに出てくる役柄の多くはきわめて市民的で、能のような夢幻性は持たない。だが、だからといって太郎冠者のように動く人間が実際にいたとは思えないし、舞台をぐるりと回っただけで何キロも移動したことになるような現実世界はない」(@いとうせいこう)とゆー事らすぃ…所詮、狂言も舞台、フィクションだよってか?

 でもって、「ロンドンやポーランドのワークショップに行っても、「能狂言はどういうメソッドか」とか、「歌舞伎の外連をやってくれ」とか、日本の俳優はみなできるのではという誤解の中にあって」(@夏木)の件は、ありがちなネタだよなぁ(笑)もー、日本人は皆、フジヤマ、ゲイシャ、アキハバラだと思ってて、日常も常に着物着てるみたいなノリをてんから思い込んでいるガイジンさんいるいるってか(笑)で、そーじゃないと知って逆ギレするまでが様式美のよーな気がするのは気のせいか(笑)

 作り手からの狂言とすると、「私どもは別に自分が言いたいことや自分の情熱を見せたいわけではなく、トランスしていって、自分かもっと違う存在になれているときが本当に気持ちよい」(@萬斎)という心境らすぃ…何とゆーか、日本の芸能って、自分が、個性がというノリより、己をむなしゅーしての世界観のよな?

 そんな訳で野村家、もしくは萬斎のソレはソフィスティケートされたソレかなぁ?「農耕儀礼でやるなら、黒川能に行ってください(笑)。喧嘩する気はありませんが、東京で能・狂言としてほかの芸術と対抗しながらやっていくなら、そういう発想になるなというのが私のスタンスです」(@萬斎)とな…狂言には狂言の美学があるってか?

 これは狂言豆知識になるのか?「狂言を三つ並べるときに、昔だったら五番ですが、そこに能的要素が入っているものがないと変化が出ません」(@万作)とな…喜劇だけじゃないねんの世界でしょか?

 また、「狂言では、道具は使わないけど使うときは非常にデフォルメする。大きなものを極端に小さくする。小さいものを大きくする。大きい櫓がコンパクトになるし、小さい毛抜きが巨大になる。その発想の転換も狂言の演出の一つとして非常に大きなものだなと思います」(@萬斎)だそな…そーだったのか?狂言?ガリバーか、アリスか、それが問題だってか(笑)

 狂言師の顔についても「皺が寄ってお猿さんに似た顔になっていかないと、いい味にならないんじゃないでしょうか。二十代、三十代では難しいですよ。私も兄(萬)も、昔狂言師の顔じゃないと言われたものです」(@万作)だそで、狂言って秀吉顔が向いているんだろか?

 他にも、「私どもの能・狂言の修業は、まず意味より音を大事にする部分がある」(@萬斎)とな…それはシェイクスピア劇のグローブ座も同じじゃね?で「その何もないところで観客を飽きさせないためには、作品の解釈を言うより、まず音で圧倒するほうが有効だっただろうと思います」(@萬斎)って、初めに音ありき?

 んで「よく父も言いますが、七が台詞、三が体のあり方です。それは声と姿と言ってもいいけれども、声の部分の存在感で圧倒できないといけない」(@萬斎)はどんな舞台でも言える事なんだろか?

 他にもたくさんたくさん本当にたくさんエピ満載ですので、興味のある方は本書をドゾ。最後に、「伝統芸能の俳優にあたらえらた使命」(@土屋)とは、「一、伝統を継承する。型を伝え、その型にこめられた先人の意思を伝えていく」「二、その型に、自分の声、体、リズムといった、俳優の身体に固有な質感を加えることで、伝統に新たな輪郭を与える」「三、第二項目と同じことであるけれど、伝統に新たな輪郭と質感を加えることによって伝統を更新して、同時代の観客のなかに生きる芸術にする」「四、一から三までのことが、誰に対してもあきらかな説得力を持つように、きらきらした華やぎをもって舞台のうえに登場する。新しい時代の風をはらんで登場した者の目撃者になっている喜びを観客にあたえる」(@土屋)って事らすぃ…伝統芸能伝承者の心得の条ってパネェ…まさに言うは易し、行うは難しじゃね?

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