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2017年2月24日 (金)

ですかばーじゃぱん?

街道をゆく 三  司馬遼太郎  朝日新聞社

 旅に出て、道を歩くと、そこに歴史ありって事じゃね?で、そんな著者のエッセイ集でしょか?今回は、青森から岩手の、主に八戸から久慈への道なりと、熊本から鹿児島の、主に八代から鹿児島への道なりと、大阪から奈良の、葛城山辺り(?)の三本立てだろか?どこも土地勘が全くないので、どゆ経路が今一ピンと来ないのですが、いずこの道も皆それぞれにパネェって事にはかわりなしでしょか(笑)

 詳細は本書をドゾですが、やはり東北は切ねぇーなんでしょか?まず「白河以北、一山百文」キタコレで…「明治政府は東北の面倒を見なかった。むしろとびこえて北海道開拓に熱をあげ」ですしおすし…そして八戸の歴史も凄い…「鎌倉期のいつころか、甲斐国(山梨県)巨摩郡南部村に住んでいた人物が耳にして大海に押し出し、いまの八戸のあたりの海岸に上陸して冬の過ぎるのを待ち、そのあとじりじりとこの広大な土地を切り従えて行ったのがその後の南部の殿様の祖先だというのである」ってホンマでっかぁーっ?

 でもって、津軽対南部の関係性とその歴史のすざまじさについての詳細も本書をドゾ。更に南部内でも、盛岡の南部本藩と八戸の南部藩の対立と関係性についての詳細も本書をドゾ。

 でまぁ「八戸の商業は、日本でももっとも遅くに発達した」そで、どゆ事が起きたのかの経過の詳細は本書をドゾですが、「商人たちはやがて肥り、金貸しになった。農民に金を貸し、田畑を担保にとった。田畑は商人に吸いあげられた」結局「商人が山林や田畑を所有する大地主になった。農民は商人の奴隷になって耕作した」になったらすぃ…

 しかも、八戸の藩はその事態をどーしたかとゆーと、「商人という魔術師の異常膨張を手ばなしでながめていただけでなく、商人が大地主になってゆくにつれて、「むしろ商人の上に乗っかれば楽ではないか」と見た。他の地方のどの藩でも農民支配の上に成立しているのだが、八戸藩は農民があまりにも窮迫してしまったためにこれから搾りあげることの困難を思い、むしろ商人に農民を搾らせ、その商人から金を出させるという荒っぽい方法を見出した。藩は搾取とか収奪とかいう政治さえ怠りその機能を商人にまかせてその上前をはねるだけの機能になった。藩と商人が一体化した」って、ホンマでっかぁーっ?と言う前に、コングロマリットとどこぞの政府、官僚の世界にくりそつと思うのは気のせいか(笑)

 まぁ現実見ろよでは「ロシア艦船というのは、いまでもしきりにこのあたりを遊弋する。私が八戸へ行ったときも、八戸沖にロシアの大きな漁業母船があらわれ、たくさんの漁船をひきつれてさかんに魚を獲っていた」そな…日本には頼りになる外務省と農林水産省があるからなぁ(笑)

 まっともかく、久慈衆、南部衆、津軽衆の因縁浅からぬ関係性は、何とも凄いので、詳細は本書をドゾ。誰の言い分にも、その前のその前のその前の…と続くってか…

 後「南部農民は貧しいといわれているのは、マスコミが頑固にもちつづけている感傷的偏見である」の件も本書をドゾだろか…マスメディアっていつの時代も皆まで言うなか(笑)

 アリス的には、三編目の大阪-奈良編じゃまいかで、ちなみに著者も大阪在住、なのでご近所の話も多しの世界が展開している模様…

 准教授的には、「理趣経」かなぁ?変態性欲の権威的に(笑)「男女の官能というものを空海ほど知っていた者はまれであるかもしれない。そのことは空海がその体系において「理趣経」を経典として据えていたことでもわかる。この経は男女の官能とその行為をあつかい、そのなまみの煩悩をなまのままであつかいつつもそれを真理の世界へ昇華させ、それをもって空海は密教仏国を荘厳する法門とした」そな…煩悩、百八つで済むのであろーか(笑)

 天王寺キタコレで、「四天王寺の西門前を一心寺門前にむかって坂をすこしくだったあたり、真田幸村が戦死した近所で売っているのだ」って何を?とゆーと、ダンジリを…しかも売っているとこの名前が「ダンジリ株式会社」…おステキすぐる(笑)ちなみに一台、三千万円だそな…お神輿もお高いんでしょ?ですけど、ダンジリもパネェ…

 他にアリス的ではホテルシリーズで、八戸のホテルのとこで「宿は小ぶりなホテルで、従業員のしつけと言い、食堂の食事と言い、地方都市のホテルとしては屈指のものといえるかもしれない」の件かなぁ(笑)日本の国のホテルだものってか(笑)

 ありがちなネタ系では、「肚の中は京都中華思想がずっしりあって、京都以外の人間文化はすべて鄙であると思っている。京都人は千数百年にわたって自然に飼いならしてきた」ですしおすしって、そーだったのか?朝井さん(笑)も一つ「祇園では東男がもてる、上方のポンチはあまりよろこばれない」ってホンマでっかぁーっ?

 大阪人的には、慈雲尊者キタコレってか?「この人は大阪の人で十五歳で仏門に入り、江戸末期における最大の仏教学者になった。とくに梵語学についてはいうまでもその業績は世界的な評価があるといわれる」ってホンマでっかぁーっ?

 真言宗的人材としては「空海があまりに完璧な体系をつくりすぎたために、真言密教はその後えらい人が出なかったようですね。やっと江戸後期になって慈雲が出ただけでしょうか」(@司馬)にもう一人いますで、「平安後期に出て真言宗新義派を開いた覚鑁だという」とな…そーだったのか?真言宗?

 で、高貴寺キタコレになると…ちなみに律院にも拘らず、こちら地元の人でも知らないお寺なんだそな…とゆーのも「現住職が律院の性格をよくまもり、世間にはなるべく寺の存在を知られぬように努力し、たとえば近鉄電車が「沿線の観光資源としてパンフレットに寺の名前を印刷したい」といってもいっさい許さずにきているのである」そな…そんじょそこらの観光寺と一緒にしてはあきまへんえとゆー事らすぃ…世の中には金儲けに走らないお寺ってのもあったんですねぇ…

 こちらのお寺の詳細は本書をドゾですが、「この寺の開祖は役ノ行者ということになっている」からお察し下さい(笑)いや、どんだけ古いんだ(笑)空海くる前から、神域でしたが何か?の世界が展開していた模様…

 でもって「「この山には香華が多い」と空海が感歎して香華の山とよぶうちにやがて高貴寺という寺名ができたといわれる言い伝え」までありまっせとな…

 蛇足ですが「インドで成立した仏教が、仏には香と華で供養せよと教えたのは、夏いっぱいが雨季で部屋が蒸れ、物が饐え、臭気がこめるために、芳香が浄化の役目をするとおもわれていたからであろう。仏教では香と華というべつべつなものを香華という一つの言葉にして使っているが、しかし単に香りのつよい華という意味にもつかわれる」のだそぉ(笑)

 さて、お山にはお寺いぱーいなのか、今度は弘川寺キタコレで、こちらはあの西行のお亡くなりになったお寺って事で有名らすぃ…

 西行についての詳細も本書をドゾですが、「かれは宮廷人とも社交をし、平家一門とも親しくし、さらにはかれの晩年、平家がほろんだあと、頼朝から尊敬をうけて鎌倉にもくだっているし、また当時日本における第三勢力であった奥州平泉の藤原秀衡とも懇意で、平泉に逗留して歓待をうけていたりしているのである」なお人ですしおすし(笑)西行とはどゆ人かとゆーと「家富み、年若くして心に欲なし」(「台記」藤原頼長)だったらすぃ…そりゃ一生歌よんでられるってか(笑)

 でまぁ弘川寺の詳細も本書をドゾ。

 さて、土地的なエピでは、「南河内には石川という流れがある。上代、このあたりの野や丘陵でゆたかな水田が発達していたのはこの川のおかげである」そな…「このあたりの古い村々はこまびとがひらいたらしいということは、姓氏録などによっても推測される。「石川のこまうど」という言葉が催馬楽のなかにも出てくる」んだそー…

 ちなみに「白木村の呼称は新羅村からきたものだということは他にも傍証があってまちがいのないところである」そで、「新羅人だけでなく百済人も住んでいた村があった。石川村雑居という所である。敏達天皇のときに村ができた」って、ホンマでっかぁーっ?

 これまたちなみに「敏達帝のとき百済から日羅がきた」というのもあると思いますだろか?こちらの紆余曲折についての詳細は本書をドゾ。「日羅は多数の家族、家来、工人などをつれてやってきた。玄界灘をわたり、そのまま瀬戸内海を舟行し、備前(岡山県)の児島の屯倉にいったん寄り、大阪湾に入って難波に上陸した」そぉな…「敏達帝はかれに河内国の土地をあたえ、阿倍氏の長者や物部・大伴の長者たちと同格にして国政に参加せしめた」そー…まぁ色々あって最後は「百済人のあいだに内紛があって同族のために殺されたという」とな…

 また金剛山では、「千早峠という峠があり、そこからすこしくだると楠木正成の攻防戦の拠点として有名な千早村が」あるそな…でもって、麓に観心寺があるらすぃ…

 で、著者の正成像が楽しい「正成は鎌倉幕府をたおした河内ゲリラ隊の隊長であり、さらに足利尊氏を首領とする武家勢力と戦って湊川で戦死した。王を尊び覇を賤しむという宋学という多分に形而上学敵な学問を身につけてそのイデオロギーに殉じたという意味では、日本史上最初のイデオロギストであったかもしれない」って…ホンマでっかぁーっ?

 後は河内人とは何ぞや?で、「河内人は元来話し上手である。それ以上に相の手がうまく、話すほうはついあおられ、区切り区切りにこの相槌が太古のように入って話が舞いあがり、自然と漫才のようになる。漫才は河内から発祥した」って、そーだったのか?こまちさん(笑)

 そして南河内には「PL教団の本部がある」とな…「元来、中河内の布施村のはずれで発祥した新興教団で、かつては「人のみち」という名称だった。太平洋戦争の前、それがあまりに膨張したために政府がおそろしくなり、大本教などと前後して弾圧して取り潰してしまった」そな…「布施村にあった全盛時代の人気というのは大変なもので、毎朝お詣りにゆくと無料でお粥をふるまってくれる。それがたのしみで行っているうちに信者になったという人が多い」って…紆余曲折の途中経過は本書をドゾですけど、富田林に再び教団戻ってきたぜで、「道路地図などは教団のシンボルがなく、ゴルフクラブのシルシがついている」そな…「教団がゴルフ場を経営していて、一般にはそのほうが通りがいいらしい」って…

 どゆ事とゆーと「PL教団の教主は英国風の芝生のながめがお好きで、最初、この羽曳の野と丘をことごとく芝生にしようとしたらしい。が、その維持費がばく大にかかることがわかってゴルフ場にした。ゴルフ場なら芝生の維持費は芝生自身がかせいでくれるからである」って…そして「ちかごろでは真夏の花火大会がPL教団の名物になっている。世界一だという」だそな…「私はパンフレットを見ながら、ややおかしく、さらにはお粥のころを思い、昭和史というものの有為転変のはげしさをおもった。PL教団はよくやったというべきだろう」って事らすぃ…お粥→ゴルフ→花火の次は何なんだろぉ?

 次に大ヶ塚に行っきまぁーすっで、こちらは「むかしは河内国石川郡大ヶ塚村といわれたが、大阪府側が完成してからは大阪府南河内郡石川村大字大ヶ塚と言い、ちかごろは南河内郡河南町大ヶ塚という。近鉄南大阪線富田林駅をおりる。東へ三キロほどゆく。正面に葛城・金剛を見つつ石川磧をわたり、その土堤道を北上すると、やがて田園のなかに村がある」って…大阪にも村ってあったんですねぇ?

 大ヶ塚の集落はぜんたいのかたちが矩形で、しかも幾筋かの道路がまるで京都もしくは中世の堺のように、東西南北の条理をなしているのである。あきらかに自然発生的に成立した集落ではなく、都市計画によってできためずしらい集落であることがわかっている」ってホンマでっかぁーっ?でもって、この村のエピが凄い…「豊臣秀頼の大坂城が夏ノ陣で落城するとき、城が燃えあがる火煙がこの台上の村から望めたという」って、ドンダケェー(死語?)

 これらの陣キタコレで「戦争による治安事情の悪化で、槍や鉄砲をもった夜盗の群れが、富裕な村々を襲うといったことがあったらしい」って…で、「この大ヶ塚には顕証寺という西本願寺に属する大寺がある。御坊とよばれるほどの寺格の高い寺だったから、一応は「守護不入」であった。ということは、たとえ河内一帯が戦場になってもこの寺には敵味方とも兵隊は入れないという慣習で、村の者は安堵していた」…ところがどっこい「慶長十九年十一月」夜盗キタコレ、多分兵士崩れの小者達が…

 そしてどーしたかとゆーと「村人は合戦に慣れていた。南北朝の争乱のころ、この村が楠木正成の千早城の前哨陣地になっていたこともあったし、さらには戦国期に紀州の武装勢力である根来衆が河内まで進出してこの村に御所をかけていた時代もながい。これらの伝統によって村人は自衛能力をもち、この野盗の浸入さわぎのときは村中が果敢に防衛線をやってのけた。ただの百姓村でないことは、以上のことでもわかる」って…日本のパンピーなめたらあかんぜよってか(笑)

 ちなみに今でしょ(死語?)の顕証寺…「鎌倉や戦国初期ぐらいまでの武家の城館というのは、門の上に木製の楯が並べられていて、そこに籠って敵をふせぐ。この顕証寺の門は、門の上に吊鐘を収めた囲みがこわれている。門の上に吊鐘のある形式など他に類がないであろう。吊鐘は申しわけで、じつは矢防ぎに相違なかった。他に、本堂の横の軒に半鐘がぶらさがっている。真宗寺院には半鐘がつきものだが、しかしこの顕証寺にかぎってはなにやら村人に急を告げるための自衛上の目的であるようにおもわれてならない」って…いやぁ歴史の遍歴って凄い…

 そんな村ですから逆に「牢人(浪人)が落ちてきて帰農、帰商した者も多い。牢人が身をよせることができるというのは、この村の豊かさを示している」って…そゆ事なのか…それにしてもこの村の日常の歴史の一つ一つが凄すぎて、詳細は本書をドゾ。ある意味、日本の庶民のリアルだよなぁ…

 後、実に大阪的なエピなんだろか?で、物凄い車量で人が渡れない程の車道にて、「先日も路地から表通りへ出たとたんに赤い自転車が飛んで娘さんが倒れた。その娘さんの自転車の下に歩行中のおばさんが下敷きになった」、車にひっかかって自転車が横転した模様で、「娘さんには怪我はなかった。自転車もこわれていなかった。ただおばさんが右大腿部を横転した自転車のために圧迫されて、うつぶせに倒れたままだった」とな…で、そのおばさんが「急に大声で痛い痛いと言いだした。立たせてみると、ちゃんと立った」し、血も出ていないし、骨折もしていないとな…著者が励ますと「おばさんは日本語のひとではなさそうで、だから他人への無用の会釈はなく従って私に礼などは言わず、そういう日本の農村で成立した余計な配慮よりも、とにかく差しせまった痛さを全身で訴えることに専念していた」そな…

 さて、熊本-鹿児島の方の詳細は本書をドゾ…本書的に言うなら「熊襲の国から隼人の国へゆくのである」ですしおすし…何か西郷さんのとこだけでもお腹いっぱいになりそーで…

 それと一つだけおろろいたのは江戸幕府の隠れキリシタン弾圧云々も何だかなぁな歴史ですけど、薩摩藩中では、更に一向宗もあきまへんえで、「「隠れ門徒」がみつかると、キリシタンの場合と同様、もしくはそれ以上の苛烈さをもって」拷問キタコレになったらしい…「薩摩藩というのが、江戸期の他の藩にくらべて平均的な存在ではなく、きわめて特異な独立国をなしていたことがわかるだろう」って…ドンダケェー(死語?)

 も一つ「もともと薩摩の士風というのは人工的なものなのである。戦国末期に道徳律として明文化され、形成された。それをもっと強烈に教育され、三百年間飽くことなくその教育を繰りかえしつづけられ幕末にいたっている。このため薩摩では士族と百姓のあいだに気質の断層ができ、黒と白ほどにちがってしまった」って、ホンマでっかぁーっ?

 ちなみに薩摩藩には中間層がいなかったらすぃーで「薩摩藩はその耕作面積に比して士族の数が多すぎ、藩の経済政策としては百姓をほとんど奴隷同然に酷使する以外に藩財政を立ちゆかせることができなかったのである」とな…

 エピ的に強烈なのが、「普通語を使いましょう」の件だろか?この教育が「戦前、鹿児島県の小学校でやかましくおこなわれた」そな…「小学生たちが胸に「普通語を使いましょう」と書いた切れをつけて歩いた。学校の中で鹿児島弁を使うと一回につき何点か減点になるという罰則があった」そな…

 でもって「このおなじ教育が同時期に沖縄県でもおこなわれた。沖縄の場合、この事実が「琉球処分」という日本中のどの地方も苦渋をなめさせられた廃藩置県と同様、沖縄の特殊性としてであると歪曲され、いまあらためて「沖縄差別」の歴史としてフットライトを浴びている。沖縄論者にあってはこれは「弾圧」と規定する」そな…更に続けて著者は「私はこの世で女のヒステリーほどきらいなものはないが、それ以上にかなわないと思うのは男のヒステリーで、とくにこの発作が政治や歴史についてのエッセイにあらわれたりすると、子宮の戦慄を大写しに見せられているようで、どうにもこまるような気がする」の件でしょか?

 まぁともかく、「普通語のほうが、東京に出たときに便利だから」「という受けとりかたで、「普通語を使いましょう」という運動を鹿児島県人はうけとった。その点、ひどく割りきられていて、家庭では薩摩語をつかっていて、学校では普通語をつかった。土着的怨念で反発したりしなかった。第一、薩摩人のおもしろさは、自分のそのおよそ普遍性をもたないその特殊な方言をこれは鄙語で卑しむべきものだという劣等感を在来もっていなかったのである」ですしおすし(笑)鹿児島の人にとっての標準語って、よーするに英語みたいな共通語的意味合いしかないよーな気がするのは気のせいか(笑)

 豆知識的には、「真言仏教はおそらく仏教ではないであろう。インド土着のバラモン教が唐の長安の都に入り込んでいたのを空海が入唐し、それに遭遇し、徹底的に体系化し、いわば液体を固体にしさらには結晶体に仕上げるような作業をして日本にもちかえったものにちがいない。自然、バラモン教ですらなく、やはり空海によって興された独自の思想にちがいない、という奇妙な気持ちをもつようになった」とな…密教って一体?

 他にも仏教系の豆では、「律というのは僧侶の生活規範のことで、その律をもって専門的に成立している寺をどの宗旨(天台宗、真言宗、浄土宗)でも律院という。カトリックにおける修道院のようなものである」そな…ちなみに浄土宗の律院は法然寺(京都)なんだそー…

 も一つこれも仏教の豆かで「日本人に仏教を伝達した中国人や朝鮮人は、結果的にはずるかった。かれらは造仏造寺をしながら大いに食肉をした。もし中国や朝鮮で、日本の奈良朝が出したような食肉禁止令が出ていたとしたら、かれらはこんにちのような人口ではなく、中国は黄河や揚子江流域にわずかに人間が住んでいるだけの地域になっていたかもしれず、あるいはインド的慢性飢餓状態が中国大陸を覆って、たとえば中華人民共和国のようなものを興せるエネルギーなどとてもなかったに相違ない」って…中国にもベジタリアンはいたのだろーか?

 後、八朔…夏みかん系の名前かと思っていたら、「陰暦八月一日のことで、近畿の農村ではボタ餅などをつくって祝う」んだそな…そーだったのか?アリス?

 も一つ豆知識で、都道府県と県庁所在地って、因果関係あったのか?「明治政府がこんにちの都道府県をつくるとき、どの土地が官軍に属し、どの土地が佐藩もしくは日和見であったかということを後世にわかるように烙印を押した」そで…「その藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である」そな…例えば、鹿児島県鹿児島市、山口県山口市、高知県高知市、佐賀県佐賀市…

 でもって、「官軍の主力はいわゆる薩長土肥だが、の肥の肥前佐賀藩などはあれほどの小地域で立派に一県なのである。本来いまの長崎県内に入るはずだったのが、肥前出身の高官たちが、「わが藩の版図として残すべきだ」として佐賀県ができた」ってホンマでっかぁーっ?

 他にもたくさんたくさん本当にたくさんエピ満載ですので興味のある方は本書をドゾ。それにしても、「自然、記述の時間が上下する」「上代を楽しんでいる」「いきなり光景が近代へ急転したりするが、しかし日本人の歴史は巨視的にみて弥生式の古代からこんにちまで一度も断絶(イギリスのように)がなかったことをおもえば、時間の昇降運動をくりかえしつつ考えゆく以外に方法がない」の件は日本人なら、皆思うとこじゃなかろーか?ええ、キョロキョロしても日本は日本なんですよ、奥さん(笑)

 目次参照  目次 国内

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