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2017年3月28日 (火)

面白の春雨や花の散らぬほどに降れ?

街道をゆく 四  司馬遼太郎  朝日新聞社

 旅行記、紀行記、エッセイ集なんでしょか?タイトル通り、道を語るなノリでシリーズ四巻目キタコレってか(笑)今回、洛北諸道、郡上街道、白川街道、五箇山街道、越中街道、丹波篠山街道、堺・紀州街道、北国街道とその脇街道という、比較的近畿というか、近畿近県でしょか?JR西日本の範囲内みたいな(笑)

 それにしても街道、道路、道…「明治以前の日本人の道路感覚は、路幅は馬一頭が通れる程度でいいというほどのものであった」んじゃまいかとな…ええ、古代ローマの道路感覚とはちゃいまんねんって事らすぃ(笑)

 現代、「日本中の道路が舗装されたが、その上に成立したものはもはや悪の華の形相を示しはじめた自動車文明である」ですしおすし(笑)

 歴史というのは、今も昔もなるほろの嵐で、今読んでもなるほろとしか言えないのですが、時間経過とゆーか、タイムラグというのが如実に出ているとこもある訳で、それは五箇山街道のとこで、「空を指さした。空が北京の空のように青く、晩秋から初冬にかけての越中ではとてもこういう空の日はないのだということ」の件でしょか(笑)あれから四十年(?)前は地球は青かったもとい、北京の空も青かったんですねぇ…

 アリス的には、京都、大坂の街道が気になるところのよな(笑)土地勘が全くないので、アレですが、洛北街道の件は、海奈良の道とも被るんじゃなかろーか?と思うが如何なものか?

 まずは鞍馬寺とスタスタ坊主の由来の話から始まって、京都から北上しまっせの世界が展開していく模様(笑)また、鞍馬街道となると「山伏はこの街道にもっともふさわしいかもしれない」になるらすぃ(笑)お山には天狗、もとい山伏が住んでいるってか?

 ちなみに山伏とは「僧ではなく在家の修験者である」そで、「南北朝の争乱時代になると、諸国の山々に山伏がうようよ居たという感じで、山伏ゆかりの寺々がひとたび招集すれば何千とあつまったような印象がある」って、山伏ってそんなに需要があったのか?まっ詳細は本書をドゾですが「戦国期に忍者というものが出現するのは、宗教性をうしなった山伏の一変形であるのかもしれない」とは…キーワードは山か?山なのか?

 そして「江戸期になると、山伏の多くは里に定着し、自分の行の力をつかって里人のために加持祈祷をしつつ生活した」そな…民間療法と民間信仰キタコレなんでしょかねぇ?

 で、「明治期は職業的な山伏はすくなくなったが、町々の講として残った。上方あたりでは町の旦那衆は半ば健康のために夏にだけ山伏になる。夏になるとこの姿をして講を組み、大和の大峯山などにのぼってゆく、いわばリクレーションのようなもの」だったらすぃ…ちなみに最近は、専らゴルフ族に鞍替えした模様(笑)それにしても、大阪には山伏の伝統があったのか?

 でもって、戦後三年目のエピ…「京都の円山公園をめざし、諸方から山伏どもが柿衣を着て群れ集まった」そで、京都の進駐軍が「ヤマブシとは、サムライのことではないのか」と物凄く過敏に反応したらすぃ…こちらの詳細も本書をドゾ(笑)

 「アメリカ人がこの服装を異様におもったのも無理はなく、戦国に日本にきた宣教師たちも、山野を跋渉している山伏の服装をみておどろき、「かれらは悪魔の服装をしている」と、いった」って、欧米人から見ればかのよーなものに映ったらすぃ(笑)日本語も悪魔の言葉だとか言ったなかったっけ?戦国の宣教師、自分達が理解できないものは何でも悪魔のせーにしてたんじゃね(笑)

 また、山伏の権威の推移とでも言おーか、平安の頃はまだあったそれも、鎌倉、室町になると「山伏も一般に堕落した」し、となればねぇ…パンピーは見ていたになる訳で(笑)

 とはいえ、「洛北諸道は、雲ヶ畑にかぎらず、中世のころ山伏が馳駆した道なのである」しかも「洛北は霊異に富む山が多く」あるとな…「中世、そういう霊異の存在を信じたもろもろの験者たちが、この鞍馬街道を花脊にむかって往ったであろう」とゆー事になるらしー…

 でもって、「鞍馬山麓の村」とゆーのは「ことごとく鞍馬寺の僧兵の子孫たちといっていい」になるのか?「僧兵という、中世で活躍するこの特殊な戦士団は、叡山であれ、興福寺であれ、三井寺であれ、熊野であれ、日本中のあらゆる寺から戦国末期には消えてしまっている」そだけど「鞍馬だけは例外である」になるらすぃ…

 ちなみに僧兵とは、「戒をうけた僧のような僧位僧籍をもたず、ふつうはお経もよめず、まして仏学に通じているわけでもないが、姿は僧形をとっている」そで、「荘園をたくさんもっている富裕な寺に発生した」ものらすぃ…「平安末期に寺々の武装が重厚になるにつれて、寺の荘園から壮丁を徴募してきて僧兵にさせたりした。戦争のないときにはキコリをしたり寺の雑用をしたりする」って…それって普段はコックだけど実は戦士ですって奴だろか?(古っ)

 まぁともかく、武家政権的には武士以外に戦力を持っているとゆー事で敵視されていたらすぃ…「室町幕府などはしばしば法令を出して社寺が兵をたくわえることを禁じたが、叡山などはその禁令に応じなかった」そな…でまぁそれが信長の延暦寺焼き討ちにまでつながる話となるらすぃ…

 とはいえ、鞍馬寺の僧兵のみなはまは武威を示すとゆーよーな方々ではなかったらしく、そのまま土着して生き残ったとゆー事になるのだろか?これらの村落は千年の歴史があるとゆー事だよなぁ?さすが京都(の北)とゆーべきか?

 ちなみに「この僧兵の村はいまでもそうだが、古来、七つの組で組織されている。大総仲間、宿直仲間、僧達仲間、名衆仲間、脇仲間、大工衆仲間、大使仲間の七組で、とくに大総(大僧)仲間の家の者はいまでも鞍馬の竹伐会とよばれる祭礼のときには僧兵の姿をし、太刀を帯びて出てくる」って、ホンマでっかぁーっ?

 さて、舞台は「花脊村から山国村へゆく街道のまわりは、ほとんどが山林である」にキタコレってか(笑)ちなみに「このあたりは江戸期にあっては天皇領であった」となるらすぃ…

 道に歴史ありというか、その土地に歴史ありというか、丹波の馬路村に「東福寺の末寺の長束寺」と河内山半吾の関係辺りについての詳細も本書をドゾ。幕末、長州ときたらピンとくるかも(笑)ちなみに当時「長州人はすくなくとも京都とその付近にあっては世直しをやるひとびととして受けとめられていたようであった。ついでながら大坂でさえそうで、元治元年ノ変で敗走した長州人の一人が大坂の中之島で幕吏に包囲されて闘死した。その闘死した場所に柳の木があり、市民たちがその柳に「残念サン」という神名をつけて一時は参詣人が絶えなかったという話が残っている」って、そーだったのか?アリス?

 ちなみに馬路村は江戸の旗本領だったそな…とゆー事は年貢がとても重いって事じゃねでして、そりゃ庶民的に幕府方につく訳がなくね(笑)洋の東西にかかわらず、重税は勿論、増税した政府は必ず破綻してるがな(笑)

 まぁそれもともかく洛北ってパネェと思わされたのは、かの地には御陵があるんですね…「光厳・後花園と、それに後土御門の分骨陵」キタコレでしてこちらの詳細も本書をドゾ。一つだけ「北朝の光厳天皇というのは歴世の天皇のなかでも有数の教養人だったといえる。ところがその在世中は南北朝争乱という欲得時代の荒波にいたぶられ、京を脱出して近江まで逃げたり、晩年は一介の僧(法王ではなく)になったり、しかもはるか後世の明治になって「天皇」であることからはずされてしまうというばかばかしい、もしくは数奇きわまりない運命を背負ったひと」らすぃ…天皇稼業も楽じゃないってか…

 も一つ、後土御門天皇の方のエピもパネェ…詳細は本書をドゾですが、「後土御門天皇の崩御の年も、室町の諸大名たちのあいだでの慢性的戦争がつづいているが、のちの戦国期の割拠期のような論理的戦略があるわけでもなく、痛快な戦闘があるわけでもなく、戦国武将が心掛けた民政への配慮という現象も見られない」という、「倦怠と没理想が世をおおい、戦争すらたがいに怠けつつのそれで、正規武士たちは直に前線に出て身を曝すことをきらい、戦闘を、一種請負うというかたちの存在として、足軽が登場して、戦いをいわば代行している。この室町期の足軽というのは農村のあぶれ者で、いまでいえばならず者であろう」って、そーだったのか?足軽?

 さて、京都からの道、今度は丹波篠山街道へ行くですけど、こちらは西?北西にのびていくそれで、嵯峨野住まいの朝井さんの方がご近所って事になるんだろぉか?大原野神社とか出てくるんですが、これ、おおはらのと読むから京都だなぁなイメージですけど、だいげんやと読んだら何かネイティブアメリカンの世界のよーな気がするのは気のせいか(笑)ちなみに、「この地名はよほど古いはず」ですけど、文献に出てくるのは「日本後記」だそな…

 これまた全然知らなかったのですが、大原野って筍の産地だったのか?京都の筍って有名だけど、京都のどこで採れるかは存じ上げませんでした…「大原野は、濃密な竹藪で知らている。年々、有名な京の筍を出すこのあたりの竹藪はそれだけに栽培に手が込み、たっぷり堆肥し、土入れをし、敷き草をずっしり入れこむために、竹藪の中をのぞくとまるでよく掃き清められた座敷を見るようにうつくしい」らしかったけど、昨今はどよ?とゆー状態になってしまったらすぃ…

 そして舞台は亀岡へですけど、こちら明治以前は亀山と言って、あの明智光秀の亀山城があったところなんですよ、奥さん(誰?)「天正十年六月一日の日没後、光秀はその軍勢をひきいて亀山城を発し、この坂を越えてほのぼの明けに京都の市街地に出、本能寺の信長を襲ってこれを討ちとるのである」って、そーだったのか?本能寺の変?

 で、「江戸期、徳川氏は丹波という、もしその気にさえなればすぐ京へ出て旗を立てることができるという地理的位置に用心して、重要な大名を置かなかった」のだそな…そんな訳で、亀山城には「一門の松平」、篠山城に譜代と配置したらすぃ…「福知山に朽木氏、柏原には織田氏、山家には谷氏、綾部には九鬼氏、それに園部には小出氏」とな…

 後、この亀岡は、動乱の歴史再びで、今度は大本教の出口王仁三郎キタコレってか…こちらの詳細は本書をドゾ。ちなみに大本教って「亀岡の城あとを本部」としていたのか…で、昭和十年の弾圧来たぁーっですが、「大本教の弾圧を決意し、実行したのは、当時の検事総長である平沼騏一郎である」そで「この人物が、検事総長時代に大本教を弾圧したということは、どれほど無能な人物でも権力さえ握れば国内の弾圧はできるということである」で、お察し下さい(笑)この世で何が怖いって二流のエリートが権力を握る事だよなぁ(笑)

 さて、篠山でご飯をのシーンで、メイン通りの喫茶店のお向かいが「イノシシ屋だった」そで…異形のボタン鍋キタコレってか(笑)「目抜き通りで猪を売る店があるというのはいかにも篠山らしかった」って、そーだったのか?篠山?それにしても京都も一歩外に出れば、お肉ありますの世界だったんだろか?ちなみに篠山の宿の人曰く「町にも猪がとびこんでくることがありますよ」って、ホンマでっかぁーっ?野生の猪って…

 後、こちらは丹波篠山藩豆知識になるのだろか?で、都内の青山という地名はこちらの藩主のお名前かららすぃ…「青山家の先祖の忠成が、家康が江戸入部したとき、-あのあたりを馬で駆けてみよ。駆けただけ土地をやる。といわれてとのとおりにした。このため小大名のわりには江戸の屋敷地は諸侯のなかでももっとも広大だったといわれているが、その後、その地が家名で通称されるようになり、いまなお地名としてのこり」とゆー事らすぃ…「もっとも青山の地に藩邸をずっともっていたのは別家である美濃郡上藩の青山氏のほうで、この篠山青山氏のほうの藩邸は霞が関にあった」そな…今でいうと青山家って東京の一等地を持ってますたの世界じゃね(笑)それにしても馬で一周って話は、内藤新宿、あの新宿御苑のとこもそんなエピあったよな?記憶が薄っすらと?

 史実的なとこでは、「源義経が一ノ谷(神戸市)への奇襲作戦をやるために通った道」とな…「義経は京都にあり」「老ノ坂をのぼって丹波高原に入り、いまの篠山付近を通り、あとは三草越を経て播州平野に降りたか、それともいまの立杭付近を通って山中の杣道を南下し、笹のしげみをわけてひよどり越に出現したのか、よくわからない」そーですが、でも篠山付近を疾走したのは本当じゃね?って事らすぃ…土地勘が全然ないからピンと来ないのですが、京都、神戸間に篠山があるという立地なんでしょか?樺田警部(笑)

 そして大阪キタコレで、堺・紀州街道なんですが、堺というと、信長、秀吉の戦国時代のイメージしかないんですが、永禄五年の堺の様子を耶蘇会士ヴィレラは「日本において堺の町より安全な所はない。諸国に動乱があってもこの町にはかつてあったためしがなく、町はつねに平和で、諸人はたがいに睦まじく暮らし、他人に害を加えるという者はいない」とな…

 守護不入の社寺の伝統が、都市にもキタコレって事らすぃ…こちらの詳細は本書をドゾ。それにしても堺って軍事力も有していたのか?「海賊ができるような戦隊をもっていた商人もあり、個々に牢人部隊をやしなっている者もあり、また富商階級が金を出しあって市中見廻りの傭兵隊をつくり、かれらをして門警備や市中の治安に任ぜしめていた」そな…堺とは自治区なりでしょか?

 とはいえ、「日本の戦国期は、単に乱世ということでとらえるのはまちがっている」そな、経済しかり、文化しかり、「政治の面でもかならずしも治安が悪かったわけではない。戦国中期以後はよき大名の領内などは、平安期や室町期よりも治安がよかったようにおもえる」でして、有事も「戦争とはいっても敵味方千人が合戦してせいぜい死ぬのは二、三十人ほどであり、近代戦の残虐さからみれば、とるに足りない」とゆー事らすぃ…著者によると「昔は野蛮で残酷だったという見方が多分に錯覚だということをいいたいためである」そな…まぁ何事も、学が入ると昔は悪かったの全否定で、情が入ると昔は良かったの全肯定が多いからなぁ(笑)

 詳細は本書をドゾですけど、信長登場で、「信長は、この堺を得ようとした」ですしおすしで、紆余曲折の上、手に入れると…でもって、自治権を奪い、軍事力をなくし、代官を入れて行政権も行使すると…信長の「国家構造では堺の貿易を国家規模にまでひろげ」て、世界にはばたくのじゃを夢見てだったらすぃ…

 そんな訳で、信長は大阪湾に固執したとな…「この湾頭に首都を置き、同時にここを貿易の根拠地にしようとした」だから、石山本願寺出てけとゆー事になり、その跡地を含めて大阪開発するのじゃーの世界だったらすぃ…何せ「そのころ、大坂という地名はほとんど知られていなかった」ですからぁー、残念(笑)貿易立国、それが信長の新国家構想だった模様ー…

 まぁ戦国時代の究極のオレサマは信長だと思われですけど、堺の市民も忘れてはあかんぜよって事らすぃ…戦国末期の人達って一体…ちなみに「堺の市民は高慢とみえるほどに名誉心に富んでいた」(@フロイス)と残っている程って…当時の南蛮人に高慢と言われる程の堺人…何だかなぁ(笑)

 よーするに「自尊心と美的教養と国際知識と、そして富こそ軍事力を越える力だとする自信などからみても、日本史上のあらゆる時代を通じてこういう種類の日本人集団が出現したことはなく、ほとんど異国人を見るような思いがする」って事らしぃ…

 そんな堺な人々の詳細は本書をドゾですが、「対明貿易の必要と京の五山(大徳寺、相国寺など臨済宗の総本山)の僧と結ばなければならなかったという理由もあるがほとんどが禅宗に帰依し、日常の精神や禅的な死生観でもってささえていた。さらにはそれを美的意識に転化して文化的創造をする力ももっていた」そで、よーするに「こんにちの経済界の構成者たち」とは…皆まで言うなか(笑)

 禅寺つながりで、南宋寺キタコレってか(笑)「臨済宗の名刹で、禅第一等の大寺である」そな…「禅がもっとも繁栄した戦国初期にたてられた。のち大坂ノ陣の兵火にかかって焼け、いまの堂塔伽藍は堺が衰退期に入った江戸初期、沢庵によって再興された」ものなんだそな…

 そして大坂ノ陣キタコレになるのですが、そこでの堺の立ち位置が何ともアレですので詳細は本書をドゾ。関ケ原以後、堺は今度は徳川の直轄地になったでござるで、当然、大坂ノ陣が起きると徳川方のロジスティクスを担う事になったらすぃ…冬ノ陣の時はそんな訳で堺は大賑わいさとなり、夏ノ陣で「豊臣方に焼きはらわれるのである」に至るとな…

 まっ戦争でボロ儲けって奴は、必ず返す刀でな事態になるのが宿命か…「この戦争さわぎで、堺の商売は絶えた」(@オランダ商館長/平戸)と書いたとな…結局、商売って地に足がついていないと右肩下がりで停滞、破綻するというのがセオリーなのか?長期的に見て?

 他にアリス的なとこでは、言語のとこかなぁ…「日本人の和文による表現能力は、室町期において大いに普遍的なものになったようにおもえる。そのことは狂言の普及と無縁ではないが、しかし和文による思想伝達を本旨とした浄土真宗のひろがりとも無縁ではないであろう」って、そーだったのか?アリス?

 後は、海奈良で、今でしょ(死語?)の敦賀の宿泊客とは何ぞや?で、「岬のほうに原子力発電所があってその関係者もあるし、それにゴルフ客が多いのだという」って…成程、どこの原発も、絶対に安全ですなのでゴルフ三昧なんでしょか?

 豆知識的なソレになるのだろぉかで、中世と真言密教…というか真言密教の修法でしょか?人々がマジ信じていたそな…これを理解しないと「歴史も文学もその時代の人の心もわからない」になってしまうらしぃ…加持祈祷これ大切(笑)

 これも豆になるのか、天皇と上皇…「院政時代の天皇は、隠居して上皇にならなければ権力者としての自由がない」そで、というのも「天皇は規定以外の人間に会えないし、外出の自由もなく、また御所の塀は防御用というより神道の結界として考えられているから、この浄域の司祭者である一面をもつ天皇は御所を出て他のたとえば別荘のような場所に住むことはふつう許されない」そで、そんな自由を求めて、「歴代の天皇たちは上皇になりたかった」とゆー事らすぃ…

 ちなみに日本歴代の中で一番好き勝手したのが鳥羽院という事になるそで…ある意味日本最大の悪王とな(笑)詳細は本書をドゾですが、「芸術生活を享受し、女を好んだが、しかし中国や西洋の帝王のように庶民に直接の害をあたえるようなことはしていないし、その生涯において一人の人間も殺していない」とゆースケールの話らすぃ(笑)かくて、死後保元の乱が起き、平家、よーするに武家キタコレになったとな…

 ちなみにちなみに「自分の意志に実効をもたせようとする天皇が出てくると、きまって乱か、もしくは乱にちかい状態がおこるというがおもしろい」って、これが日本史のパターンなのかのか(笑)

 歴史的な豆では、応仁・文明ノ乱とは、フランス革命に匹敵する程のターニングポイントだったんじゃね?とゆー事らすぃ…こちらの詳細も本書をドゾだけど、その後の秀吉登場もそーだし「世間を構成している安土・桃山期の部将たちの父祖は、ほとんどが応仁・文明のころの「悪党」の出身で、ろくでもない素性のものがほとんどであった」そな…下剋上キタコレってか?

 後、これも歴史的な豆に入るのだろーか?の五箇山…ここ加賀藩領になるんですねぇ…でもって、稲作ができなかったから年貢におさめていたのが「火薬」って…硝石を製作していたって事ですよねぇ…戦国、江戸となめたらあかんぜよってか…

 でもって、加賀藩って何気にいろんなとこに領地持っていたんだろーかで、琵琶湖の今津も加賀藩の飛び地だったそな…「加賀藩はその米を畿内に送るのに、この今津港を使用したのである」って、そーだったのか?加賀百万石?

 それと西と東の分岐点って、富山にあったのか?「呉東・呉西」で真っ二つって事らすぃ…こちらの詳細も本書をドゾ。

 土地的な豆つながりで、三関キタコレで、「関所は七世紀の半ばごろに制度としてできた」そで、その中でも三関が重要とされていたらすぃ…その三関とは、鈴鹿と不破と愛発の三つ、「不破の関は美濃にあり、そのあたりは関ケ原とよばれた」で、ここから東があづま、「東の辺境」であったとな…ちなみに愛発の関は、有乳山のどこかにあったらすぃ(笑)

 寺社系での豆では、常照皇寺の件が凄い…観光料をとらないお寺なんだそな…とゆー事は「気むずかしい人が住職で、「観光できた」といえば追いかえすという伝聞は早くからきいていた」って、京都にも観光以外のお寺ってあったんですねぇ…

 ちなみに「戦国でも、奈良は守護不入の宗教都市であったために治安が悪くなく、それに初期までは座の商品経済がにぎわっていたため、ひとびとは豊かであった」そな…なるほろ、松永久秀(笑)

 それと、「下り(関東)兵法、上り(上方)音曲」のとこで、剣術は関東からいぱーいってか(笑)まっこちらの詳細も本書をドゾですが、「上方から東海・北陸にかけて親鸞を宗祖とする浄土真宗が同時期に拡まっている」そで、「親鸞は関東の稲田で布教したことがあるが、関東にはふしぎなほどこの法門は根づかなかった」そな…関東の風土には、「禅や密教の自力が適っているらしく、兵法の成立もその自力的な風土と無縁ではない」とゆー事になるらすぃ…でも上野は天台宗で、芝は浄土宗じゃなかったっけ(笑)

 後、元祖アルピニストって役ノ小角だったのか?「ただ山に登るためにそれを登るという人間のあたらしい行動世界をひらいたのは、おそらく世界で役ノ小角が最初ではないかとおもわれる」って、そこに山があるからだっ?

 豆知識、食的な方で、洛北街道のとこでアケビ茶が出てくるんですよね…アケビってお茶になったのか?「アケビ茶は新芽を用いる。春の雪が融けるころに下萌を摘んできて蒸し、よく揉んで日に干して罐に入れておく、そのあと、その日その日の使うぶんだけいちいちほうじてから煎じるのである」って…そーだったのか?アケビ茶?

 そゆのになるのか、油の場合、斉藤道山が油売りしていた頃の油は、荏胡麻油だったらすぃ…その道山末期は「美濃は一面の菜の花畑になっていた」そな…でもって、価格も安価になって、「民家も夜、灯火がつかえる世になっていた」そな…戦国とは油も下剋上ってか(笑)

 これも豆になるのか?焼き物の上手物と下手物…「清水焼や、旧幕時代の諸藩がたてた窯は」「薩摩焼の白薩摩」に代表されるよーに、限定生産、完全管理、数寄者向けというか、セレブ向けというか、鑑賞用というか、のノリものの上手物と、農家とか、パンピー向けの下手物に分かれるらすぃ…で、この下手物の素朴さがええじゃないかと、あの柳宗悦の民芸運動キタコレってか(笑)そーすると今度はその下手をウリにする事になるらすぃ(笑)つくられた素朴、あると思いますか(笑)

 まぁ道具類に関しては、五箇山の村上家の二階が「民俗博物館のようになっている」そで、そこを見学しての著者の感想が「村上家が、ほんの半世紀前まで実際につかっていた道具類ばかりで、行灯や燈台のような照明器具から衣類、はきもの、臼や杵、養蚕の道具、機織りの機械などひとつひとつ見てゆくうちに日本人の智恵がつくったこの国の民族生活の諸道具というのは、おなじ東アジアでも中国や朝鮮よりよほどすぐれているのではないかという実感をもった」とな(笑)何といっても魔改造の国だものですしおすし(笑)改良、改善はお家芸だよなぁ(笑)

 言葉で豆なとこでは、丹波越えって「駆け落ちのことである」な意味だったのか?

 堺の面白豆では、苗字キタコレってか?貿易専門の薬種商の高三とか、うどんの美々卯は耳、他にも指、指吸、飯etc.あったらしく奇名が多いとな…それにしても美々卯って堺発祥だったのか?ついでに言うと千利休の千も「自分で創った姓」とな…

 さて、日本だけじゃあれなので、外にも目を向けてみよーでは、戦国時代の東南アジア在住の日本人も結構いた模様…でマニラにいる日本人を西人は危険視していた模様(笑)まっ確かに「スペイン人とオランダ人とが会戦したとき、日本人はオランダ人に味方したらしいのである」って、ホンマでっかぁーっ(笑)

 東南アジアつながりで越の稲作…「ベトナムのような太陽と水にめぐまれた豊穣の稲作地帯にあっては、水田をひろげることについて他家と競争しなければならない理由はほとんどなく、かつては播けばみのるという生産意識しかなく、それで天地人とも十分であった」って、かくて「灌漑という国家規模の土木工事をおこす必要もなかったため、国家の存在も必要なかった」そな…王朝はあったけど、パンピーにはでもそんなの関係ねぇー(死語?)だったらすぃ…ちなみに越での大規模土木工事キタコレは仏に植民地化されてからって、ドンダケェー(死語?)

 でもって、丹波焼の登り窯は誰が丹波に導入したのか?で、現地の老人曰く「誰も持ち帰りはしませんよ、丹波で発明したのです、と文明伝搬説をぶち切るような勢いで断定した」そな…まるで「ソ連にゆくと飛行機その他あらゆる近代的な発明のほとんどはロシア人がやったということになっているらしいが、丹波という僻陬の地もまたそれに似たようなものかもしれない」って…何でも起源って、どこかのくnゴホンゴホン…

 露つながりで、「ロシア人の東漸も、もとはいえば貂などの毛皮に釣られてのものであった。さほど古いむかしではないが、ロシア人の毛皮商人が貂の毛皮をもとめてシベリアを東へ東へとすすみ、ついにカムチャッカ半島まで達した。そのことごとくが帝政ロシア領となり、ソ連にひきつがれた。世界史上もっとも楽だった領土拡張であり、シベリアや沿海州などの原住民はアメリカ大陸におけるインデアンにあたるのだが、その抗議の声など、歴史に採録されることはない」ですしおすし(笑)

 最後に中国キタコレで「中国における革命の歴史は、漢の高祖から毛沢東にいたるまで流民がそれをうごかしている。飢饉もしくは戦乱のために農民が村を空にして流動し、しだいにその数がふえて何万、何十万にふくれあがるうちに英雄的な統御者を見つけ出し、各集団がそういう者の指揮下にうごいてたがいに攻伐し、ついにはその大いなる集団が王朝を倒すにいたる」とな…立て万国の農業者ってか?

 てな訳で、他にもたくさんたくさん本当にたくさんエピ満載ですので、興味のある方は本書をドゾ。

 目次参照  目次 国内

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