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2017年7月19日 (水)

お神輿が上がる時?

ローマ人の物語 42 ローマ世界の終焉 中  塩野七生  新潮社

 人類滅亡まで後三百と六十うん日もとい、ローマ滅亡まで後どんだけやねんのカウントダウンきたこれの西ローマですが、一説によると紀元410年のローマ劫掠によって既に帝国は滅んだとゆー説もあるそな…まぁ実質、帝国が機能しなくなったら、それはオワコンって事じゃね?で、あると思いますだろか?まぁ歴史年表的には紀元476年となっているそーだが…

 さて、では帝国とは何か?「帝国は、傘下に置いた諸民族を支配するだけの軍事力をもつから帝国になるのではない。傘下にある人々を防衛する責務を果たすからこそ、人々は帝国の支配を受け入れるのである」は、ローマの皇帝の二大責務、国家安全保障と食糧確保と重なるものがあるのぅとゆー事か?治安とご飯を用意できない者、国などおこがましいわっの世界らすぃ…

 とはいえ、ローマ劫掠後のローマ及びラヴェンナの皇帝達は、これを一過性のものと認識していた模様…なので、せっせとローマ再建に着手していたらすぃ、主に「教会や教会に所属する宗教施設」ですが、何か?らすぃが(笑)まっ城壁と城門も一応か(笑)ちなみにこれに七年の月日を擁したとゆー…

 一方、その頃ガリアでは「侵入してきた蛮族間での共食い状態」に突入していたとな…具体的にいくと「ライン河の下流地帯からガリアに侵攻したフランク族は、ガリアの北部全域に勢力を広げる」し、「ライン河の中流からガリアに入ったヴァンダル族は、広大なガリアを北部から南西に略奪をつづけながら進み、ついにはガリアとヒスパニアを分つピレネー山脈まで越えることになる」し、「ライン河の中流部からブルグンド族」は「ガリア東部にまで侵攻したところで落ちつき、その一帯に住みつく」とな…スヴェビ族は「ライン河の上流地帯からローマ帝国領内に侵攻し」「ガリアをななめに横断し」先行部族との衝突で敗走の地が「ピレネー山脈を越えたヒスパニア北西部だった」とな…更に、ここにローマ劫掠の西ゴート族が南仏、今でいうプロヴァンス地方に侵入って…

 しかも、これらの部族は仲良く共存して定住したとゆー訳では勿論なく、「互いに動きながら、つまり互いに覇を競いながらの現在であったのだ」ですから…略奪と戦争の日々ってか?

 そして、ここにあの「ブリタニアからのローマ軍までが加わった」訳で…しかも「一兵卒でありながら皇帝を名乗るようになっていたコンスタンティヌス」に率いられて…賊軍キタコレってか?そして、紀元411年冬、皇位簒奪者のコンスタンティヌスが殺害されるとな…

 そんな訳で、ガリアで大騒動状態じゃまいか?で、イタリア半島なんて気にしてられねぇーって事で、伊は小康状態を保っていただけに過ぎなかったってか(笑)

 ここに、コンスタンティウス登場というか、投入というか、ガリアの残存ローマ兵を集結し、足場をのばさねばってか(笑)

 アリス的にローマ…終わりよければすべて良しとは言うけれど、シェイクスピアならこの終焉、終末をどー表現したのだろーか?シーザーとかクレオパトラとか、アントニーとかは題材にしているけど、共和制末期じゃなくて、帝政末期はどよ?作家的視点から見たらどーなんだろなぁ?とは、ふと思ふ(笑)

 さて、ローマの失地回復ですが、まず南仏の西ゴート族を兵糧攻め、海上封鎖で窮地に、進退窮まった西ゴート族は政権交代、アタウルフを殺害し、次期族長ヴァリアは、族長「未亡人になっていたガッラ・プラチディア」の伊返還による食糧援助を申し入れたとな…この商談もとい人質交換は成立し、皇妹は「「ローマ劫掠」以来蛮族の中で生活してきた皇女にとっては、五年ぶりのイタリアであった」になる訳で… 

 ちなみにその後、西ゴート族は「西ローマ帝国の「同盟者」になるのにも成功している」そで、「ガリアの西部で大西洋に面した、ローマ帝国の行政区分では「アクィターニア・セクンドゥス」(第二アクィターニア)が定住地として与えられた」らすぃ…

 その後、帰還した皇妹は、すぐに「将軍コンスタンティウス」との結婚式が挙行されたそな…そして紀元419年男児ヴァレンティニアヌス三世が誕生するとな…今現在、ホノリウスに子供がいない以上皇位継承権第一位はこの幼児にある事になるらすぃ…

 そして紀元421年、コンスタンティウスは「ホノリウスとは同格の共同皇帝」になるのである。ところがその秋にコンスタンティウス病死…そして、兄を全く信用していなかった妹は、息子を連れてコンスタンティノープルへ逃亡って(笑)

 ところが紀元423年秋、今度はその兄が病死してしまうんである…ホノリウス享年38歳ってか…そしてこの当時、ヴァレンティニアヌス三世は四歳…後見人どーするよ?とゆー事態に…かくて、この母子の西ローマへの帰還は、二年後の紀元425年となり、ヴァレンティニアヌス三世の治世もこの年スタートとゆー事になるらすぃ…

 一方、東ローマ帝国の状況はとゆーと、紀元408年東ローマ皇帝アルカディウス死亡。息子のテオドシウス二世が即位。ちなみにアルカディウスの治世を支配していたのはアルカディウスの妻、エウドシア皇后。テオドシウス二世の治世を支配したのは、アルカディウスの姐、プルケリアで、後半にはテオドシウス二世の妻も参加(笑)よーするに女性(と宦官達)に支配された治世であったとゆー事らすぃ…

 そして西ローマ帝国もヴァレンティニアヌス三世が即位したが幼児であるために、その治世は母親のガッラ・プラチディアに支配される事になると…というわけで東西、女性による競演ってか(笑)

 で、問題は当時は、「皇帝の実母とか後見人では、その資格がなかった」事じゃね?で、西ローマ帝国内は、ちょっと微妙というか、かなり微妙な政権キタコレになったらすぃ…よーするにローマ皇帝職とは軍事を抑えて、あるものだったとゆー事らすぃ…

 そしてここに二人の軍司令官が登場すると…一人はポニファティウス、もう一人がアエティウス…この二人の対照的なプロフィールについての詳細は本書をドゾ。まぁ何とゆーか、生い立ちからして凄い(笑)でもって、片やガッラ・プラチディア派、片や反ガッラ・プラチディア派とゆー直前の経緯があっての、今でしょ(死語?)は、北アフリカにボニファティウス、ガリアにアエティウスが展開、「いずれも三十代後半という、年齢でも経験でも働き盛りである。そのうえ二人とも、戦闘の巧者であった」とな…とりあえず、ヴァレンティニアヌス三世の治世は当時としてはたいらかにスタートした模様…

 北アフリカの現状はとゆーと、紀元325年のニケーア公会議によって、カトリック派が正統と決定、その他の宗派は異端の烙印を押されることになると…しかし、北アフリカではその異端とされたドナートゥス派が優勢じゃまいかと…

 そして、社会格差も信仰の差によって固定してしまったとな…上と中層がカトリック、下層がドナートゥス…「社会の格差の原因が、能力や運ではなく、信仰のちがいに起因するよになった」とな…これで固定化されれば「ドナートゥス派たちは、反体制運動がもたげてくるのも当然だ」で、信仰の自由に生活の不安のダブルパンチですから、そりゃ燃え上がった炎はそう簡単には消えませんってか…

 でまぁ、そーゆー難しい現地状況をボニファティウスは「実に巧みに統治してきたのだった」そで、それで世の中万々歳なら問題ないんですけど、「巧みに統治されているということ自体が、専制君主下では、嫉妬と猜疑心をかき立てることになるのだった」って…何が起きたかとゆーと、「ボニファティウスはアフリカの分離独立を企てている、という噂が、幼帝ヴァレンティニアヌス三世とその母ガッラ・プラチディアの住むラヴェンナの皇宮を満たし始めていた」のであると…

 かくて、母后はポニファティウスに召還命令を送る…召還であって、召喚じゃないとこがミソですが、軍勢なしに戻るのはヤバくねって事でポニファティウスは戻らず、これに激怒した母后は、「いきなり討伐軍をアフリカに送ったのだ」って、ホンマでっかぁーっ?ところが母后もこりてない、再び討伐軍を派遣するんである、そしてこちらは取り込んでしまったのだボニファティウスは(笑)

 で、このままで済むとは思えなかったボニファティウスは、自軍の増強の為にヒスパニアのヴァンダル族に兵士のレンタルをお願いすると…ヒスパニアで劣勢だった「ヴィンダル族の族長ゲンセリックは」「一軍勢ではなく、全部族で応えてきたのである」とな…

 そして一つでもやっかい払いをしたい現地ローマ人の手というか、船を借りてジブラルタルを渡り、はるばる来たぜっアフリカぁーっとなったらすぃ、その数多分10万人…

 いきなり10万もの移民というか、軍勢というか、難民というかがやってきたらどーなるかは火を見るより明らかで、「上陸したばかりのヴァンダル族を迎撃する」と…ところが「ドナートゥス派のキリスト教徒たちが、ゲンセリック率いるヴァンダル軍への参加を決めたのである」とな…ちなみにヴァンダル族はアリウス派…カトリックから見れば共に異端って事で、敵の敵は味方キタコレってか?反カトリックならば皆味方とか?

 更に虐げられてきた人々の積年の恨みを見よで、キリスト教徒以外で、とかく「二級市民あつかいに甘んじることの多かった」マウリタニア人つまりムーア人や、砂漠の民のベルベル人までもがヴァンダル側についたとな…

 カトリック四面楚歌というか、どんだけ憎まれているねんとゆー事態勃発とゆーか…まぁそんな訳で、幾ら戦闘巧者のボニファティウスにしても、多勢に無勢なのは致し方ない訳で…しかも北アフリカ在住のローマ人に戦闘能力は全くないし…

 で、この時のヒッポ・レジウスの司教が、あの聖アウグスティヌスだったんですよ、奥さん(誰?)まぁこの人に関してはあまりに有名人なので今更追記する必要はないやんけじゃまいか?ですけど、一つだけ、若き(?)日のアウグスティヌスがカルタゴに嫌気がさしてローマに出奔し、この大都市で右往左往していた時に「助けの手を差しのべたのが、当時の首都長官のシンマクスだった」って、あのシンマクスですよ、奥さん(誰?)

 「元老院の有力議員で「首都長官」であったシンマクスはアウグスティヌスに、自分が推薦人なるから「カテドラ」の試験を受けるように推めたのである」とな…「「カテドラ」とは、学生に教える場である講座をもつ資格の意味」になるんだそな…でもって、「この「カテドラ」の試験に無事合格したアウグスティヌスに、首都長官は、ミラノに職を見つけることまでしてやった」とな…さすがシンマクスとしか言いよーがないんですが…

 そんな「異教ローマの古き誇りの最後の炎」とまで言われたシンマクスを恩人に持ちながら、アウグスティヌスはミラノで司教アンブロシウスの支配するキリスト教に感化されてしまうんである。その後は聖アウグスティヌスへとな…

 ヒッポ・レジウスに話を戻すと、紀元430年、「防衛を断念したボニファティウスとその配下の兵たちを乗せた船団が、イタリアに向けて港から発って行ったことで、この街の運命は決まっていた」ですし、おすしで、アウグスティヌスもお亡くなりになるとな…蛇足ですが、その遺体、遺骨のその後の行方もドラマですがこちらの詳細も本書をドゾ。今現在、遺骨は「北イタリアのパヴィアの教会に、聖遺物として保存」されているそな…

 さて、伊に戻ったボニファティウスには北アフリカを失ったにもかかわらず、お咎めなしで、母后は今度はボニファティウスを対アエティウスに使う事にしたらすぃ…

 こちらの詳細も本書をドゾですが、そんなこんなで紀元432年、「アルプスを越えてイタリアに入ってきたアエティウス軍と、それを待ち受けるボニファティウス軍は、リミニに近い平原でぶつかった」とな…戦況はボニファティウスに有利に動くとな…で、このままでは負けるってゆー事で、アエティウスは、策に出る事にすると「大将同士の決闘」で決めよーじゃまいかと…

 多分、槍にちょっとした細工をしたアエティウスが勝利し、ボニファティウスはお亡くなりになると…そしてラヴェンナにて、アエティウスは、軍総司令官に任命されたとな…

 そして「紀元四三二年をもって、以後二十二年つづくことになるアエティウスの時代が始まる」とな…かくて皇后退場って事らすぃ…

 そしてアエティウスの西ローマ帝国防衛線、防衛戦が続く訳ですが、最早単独で互角に渡り合う能力がローマ軍にないとなれば、蛮族との共闘しかない訳で…この路線でこの先進むという事らすぃ…ただし「このアエティウスの政略は、大いなる危険を内包せずにはすまなかったのである」とな…「大将アエティウスの情況判断の的確さによって次々と味方と敵を入れ換え、それによって綱渡りにも似たプレイに集中している間に、ローマ軍自体の力が決定的に弱体化してしまったことである」って…ドンダケェー(死語?)かくて「主導権をにぎっていたつもりが、いつのまにやら主導権は蛮族のほうに移っていたのだった」って、ホンマでっかぁーっ?っと多分一番言いたいのはアエティウスじゃね(笑)

 とはいえ、そんなあやうい綱渡り期間を20年も続けたアエティウスぱねぇって事にもなるらすぃ…理由は、一、フン族を味方につけた事、二、北方蛮族達はガリアとヒスパニアと北アフリカの覇権争いで手一杯で伊まで手が回らなかった事、三は「アエティウスの地位と権力を脅かすには、ラヴェンナの皇宮もローマの元老院も無力であったこと」だそな…帝国末期の乱世になって分かる事の一つが、いざという時セレブは役に立たない、しかも一番先に逃げるという一事じゃね(笑)

 紀元439年「北アフリカの要であるカルタゴまてが、ついに陥落した」とな…さて、問題は征服民と被征服民の関係というか、落としどころは如何に?ってとこじゃね?で、これが北アフリカの場合、「異端と断じられ、同じキリスト教徒でありながら弾圧されつづけてきたドナートゥス派にとって、カトリック教徒は憎悪してもあまりある敵であった。しかもカトリックは、社会的にも経済的にも恵まれていたので、宗教上の問題にかぎらずドナートゥス派を見下してきたのである」という厳然たる過去があり、今それは「敗者になったのだ」ですから、「北アフリカでのヴァンダル族の侵攻と征服が他のどの地方よりも苛酷であったのは、キリスト教化して以降の北アフリカ特有のこの事情にあった」とな…

 結果何が起きたとゆーと、「大量の難民になって表れた」とな…しかもそれは「北アフリカのローマ社会での上層部に属した人々」とな…中層、下層の人達は社会層が逆転した中で生き延びるしかなくなったらすぃ…「北アフリカのカトリック教会は、事実上壊滅したのだった」となな…

 さて、北アフリカは伊の穀倉地帯というか、食料供給地であったのだが、大農園運営というのは、やはりかなりのノウハウがあってこそ成り立つって事らすぃ…いきなりポッと出のヴァンダル族が来ても、今まで通りの収穫量はとても望めない状態に陥っていく事になると…つまり、伊に輸出する程とれんがなって事ですか、そーですか…

 で、蛮族とは作る事が出来なくても、奪う事は出来るというか、それが一番得意種目なので、今度は船を使って、海賊として海と港を荒らす事にしますたとなった模様…もー地中海は海賊天国ってか…

 これに対して西ローマは東ローマに救援を求めたがあっけなく終わり、結局、西ローマはヴァンダル族との講和を紀元442年に締結する事になったとな…

 そして歴史の舞台にフン族が堂々登場してきたと…何とゆーか蛮族のラスボスきたこれでしょか?世界最強軍団フン族の強さは五つの無にあるんじゃね?とゆーのが著者の見解らすぃ…一、「目的なし、目的地なし」、二、「家をもつことに関心無し」、三、「法律無し」、四、「家族の守り神をもたない」、五、「明日の食を確保する考えがない」だそで、何かもーただ、前へ前へと進むのじゃだけって事なのか?フン族?

 そして五世紀、ハンガリーが「フン族の新たな本拠地になった」のだそな…ただし、東西ローマ的に様相が一変するのは紀元444年を境にしてとゆー事らすぃ…その時時代が動いたですけど、何があったかと言えば、これまた政権交代…444年「それまで兄を立てて自分は族長次席にあったアッティラが、雷が落ちて(ということになっている)死んだ兄に代わって、フン族を一人で率いることになった年である」とな…

 よーするにそれまでは東ローマでは「「同盟者」協定」を結んで、みかかじめ料払って安泰、西ローマではアエティウスが子供の頃フン族の人質生活していたとゆー縁で、これまた傭兵依頼代金とゆー名のこれまたみかじめ料払って安泰とゆー現状だったらすぃ…

 そして代かわりしたフン族は、コストラック(ヴィミナチウム)を占領する。次にベオグラード(シンギドゥヌム)を占拠、その後ミトロヴィカ(シルミウム)に攻撃をしかけたそな…そして、「フン族は、コンスタンティノープルから百キロ足らずの地点にまで迫ったのである」とな…

 そして東ローマに要求を突きつけると、よーはみかじめ料の増額と、捕虜になっているフン族軍人の開放と、自分とこのローマ人の捕虜の開放するなら金はらえとゆー三点じゃまいかで詳細は本書をドゾ…

 東ローマ側のあがきは幾つかあったのですが、結局、フン族軍に適う訳もなく、フン族の要求通りに再び「「同盟者」同盟」を結び直すしかないでござるに…最早これは「無条件降伏と言ってよかった」に至る訳で…

 かくてアッティラとフン族の蛮行とどまるところを知らずに突入した訳ですが、事態は450年にこれまた一変るんですよ、奥さん(誰?)7月28日「東ローマ皇帝テオドシウス二世死去、享年50歳」、しかも実子なしである。かくて皇宮の実権を差配していた姉のプルケリアは次期皇帝に「コンスタンティノープルで元老院議員をしていたマルキアヌス」を据える事とした。元軍高官である。更に神意を加味する為にプルケリアと結婚すると…

 そしてマルキアヌスはフン族との協約を全面破棄、積極戦法に出る事にすると…

 その頃、アッティラには一つの結婚話が浮上していた。西ローマ帝国皇女ホノリアとのである。西ローマ帝国皇帝ヴァレンティニアヌス三世の姉。父はコンスタンティウス、母は先帝テオドシウス一世の娘ガッラ・プラチディア。さてこの結婚話はホノリア一人の独断専行で、当時的には行き遅れのアラサーなめたらあかんぜよらすぃが、寝耳に水の件に驚愕した現皇帝の弟は姉を監禁して阻止するが…事は動き出してしまいましただろか…結婚ではなくて、アッティラの目を東ローマから西ローマへとである…

 これまた途中の紆余曲折はともかく、紀元451年4月初め、「アッティラ率いるフン族は、ライン河の中流に位置するマインツ近辺からライン河を渡り、ガリアになだれこんだ」とな…

 勿論、これに対戦するのは西ローマ帝国軍、アエティウスなんですが、単独で勝てる以前に戦える訳がないと…で、ガリアにいるゲルマン系蛮族と連合軍を持って迎え撃つ手に出るのでありますた…こちらの紆余曲折もパネェので詳細は本書をドゾ。まぁガリアにいるゲルマン系蛮族も、何故ガリアにいるかと言えば、ゲルマンの地をフン族に押し出されたからで、ここでフン族に来られてはこれまたゲルマン系蛮族はガリアから押し出される事に…とゆー流浪の民にならないためにの正念場でもあったのだった…

 紀元451年6月24日、「シャンパーニュの野を舞台に、「カンピ・カタラウニチの会戦」の名で歴史上に遺る、アッティラとアエティウスの間で闘われた会戦」キタコレってか…ちなみに後世ではこの会戦を「シャロンの会戦」と呼んでいるそーだが(笑)

 この戦いの詳細もこれまた本書をドゾですが、怒濤の乱戦も「陽が落ちる頃には、ローマ軍を完全に二分することに失敗したアッティラ側が押される一方になる」そで、「考えれば、あれほど怖れられていたフン族も、戦闘らしい戦闘をしたとたんに敗れたのだった。蛮族とは、防衛も十分でない民間人を襲う場合にだけ強かったのか、とさえ思ってしまう」って…全盛期のローマ軍だったら一撃で終わってたかも、なんだろか?

 翌日は確実に決戦のカタがつくと誰もが想定する中、アエティウスはアッティラを追い詰める事はしなかった、とゆー事はアッティラ敗走、ライン河の渡河して戻っていったのである。

 この三か月の戦いで懲りたと思ったら、紀元452年アッティラは伊入りを果たすのである…アクィレイア、コンコルディア、パドヴァ、ミラノと北伊の町が陥落していくと…これが春から秋まで続いたとな…これに対してガリアにいたアエティウスは全く動かず、またガリアにいたゲルマン系蛮族も勿論動く訳がなかったとな…

 そしてアッティラに対して交渉したのはローマだったと…よーするにお金を払ってお引き取りいただいた訳である…ちなみにこの時、ローマ司教のレオの伝説が出来上がったらすぃ…司教サマが心を尽くしてアッティラを改心させ伊から去らしたとゆー(笑)

 蛇足ですが「法王レオ一世、アッティラを説得す、のエピソードは、今でもラファエッロ描く壁画で、ローマのヴァティカン内の「ラファエッロの部屋」と名づけられてた一郭で見ることができる」そな、そーだったのか?天農画伯?

 そして紀元453年春、今度はアッティラが死んだとな…で、「この直後から始まった後継者争いでフン族は四分五裂になった」とな…これによってフン族支配下にいた蛮族も離散し、フン族そのものも霧散してしまったとな…

 欧州中が歓喜したアッティラの凶報の翌年の紀元454年、皇帝ヴァレンティニアヌスと、アエティウスは、パラティーノの丘に立つ皇宮の一室で顔を合わせるとな…そこで、アエティウスは「息子の嫁に、皇帝の皇女をいたたきたい」と進言するんですね…

 結果、どーなったかとゆーと、それを聞いたヴァレンティニアヌスが逆上して、無礼打ちでジ・エンド…アエティウスは、お亡くなりに…

 そして、紀元455年3月16日、「聖ジョヴァンニ・イン・ラテラノ教会前の広場で軍隊の閲兵中だった皇帝ヴァレンティニアヌスは、突然隊列を離れて突進してきた二人の兵士によって殺された」って、閲兵式の途中で暗殺ってこれ末期ローマ帝国のパターンなのか?

 ヴァレンティニアヌスは子供を残さなかったので、次期皇帝は元老院選出で、ローマの名門の一人、ペトロニウス・マクシムスを選出したのだそな…

 さて、すっかり忘れていたけれど、北アフリカにはヴァンダル族が支配してますよで、船による制海権を手にいれましたよで、海賊行為は楽しいで、シチリア、サルディーニャ島沿岸部、荒らし放題ですが、何か?だしだしでしたが、ついに紀元455年、「ゲンセリック率いるヴァンダル族が、ローマの城壁の前」にキタコレってか(笑)

 よーするに新皇帝マクシムス就任二か月で、ローマ劫掠来たぁーっとなってしまったんですよ、奥さん(誰?)こちらの詳細も本書をドゾ。

 そして、これまた身代金目的でセレブの誘拐もありますで、その中に「先の皇帝ヴァレンティニアヌスの妃と、その二人の娘もいた。ゲンセリックは、この二人の皇女の一人を、息子ウネリックと結婚させる」とな…これも毎度のバターンになりつつあるよな…

 その一ヵ月後にガリア系ローマ人のアヴィトゥスが皇帝に就任すると…これは「西ゴート族の王が推挙」した結果だとな…でも半年後に伊入りするが、宮廷人、官僚が蛮族がバックの皇帝などよしとするはずもなく排除、退位され、殺されて退場となる…

 次にラヴェンナの皇宮役人が選択した皇帝マヨリアヌスは、「蛮族出身の軍人」だとな…ただし、この皇帝は官僚が期待したよーなお飾りではなかったとこでしょか?詳細は本書をドゾですが、時代が悪かったとゆーか既に時遅しか、正しい選択ではあるが全てが裏目に出る、もしくは今更無理ゲとゆー話じゃね?で、ある意味破滅に突き進む事になるのだろーか?ゲンセリックと北アフリカ問題の詳細は本書をドゾですが、結局は、紀元461年8月、伊で帰還途中「反対勢力であった皇宮官僚の送った兵士たちが待ちかまえており、捕らわれると同時に殺されたのである」に至る訳で…

 次に皇帝セブェルスは、皇宮官僚たちのリーダー格であったリキメロスの完全な傀儡だそで、何もせずに紀元465年にお亡くなりになって退場…よーするに「東ローマが公認しようとしなかったセヴェルス帝を殺して西ローマの帝位を空位にし、どうぞお望みの人物を送ってくださいという感じで差し出された西の皇帝の位に、東の皇帝レオはアンテミウスをすえる」とな…アンテミウスは、「コンスタンティノープルの皇宮の高官の息子」で、「軍事体験も豊富」で、「前皇帝のマルキアヌスの娘を妻」にしていた「皇室の一員」だったそな…

 こーして東と西合同の対ヴァンダル族、北アフリカ奪還作戦が華麗に始動するはずだったんですが、こちらの詳細も本書をドゾ。まっ何事も軍のトップとゆーか、現場のトップは能力で決めないと大火傷をするって事ですかねぇ…

 かくして、海軍壊滅、海戦以前のお話じゃまいか?で、東ローマはヴァンダルと講和を結ぶ事になると、そして西も続く訳ですが、両ローマに不利なのは言うまでもないってか(笑)

 今回の件で、東は完全に西を見限り、西ではアンテミウスとリキメロスの関係が悪化すると、中の人で内乱、内戦状態に突入し、紀元472年3月リキメロス、アンテミウスに対抗して部下の一人のオリブリウスを新皇帝に擁立。7月アンテミウス戦死、8月リキメロス病死、10月オリプリウス暗殺…

 この後、グリセリウスが皇位につく。ここまでくると幾ら見捨てたといっても静観できず、東ローマが「ユリウス・ネポスという名の将軍を西ローマの皇帝にすると伝えてくる」とな…しかし、西の惨状を知っているネポスは伊入りをなかなかしないとな…

 今度はこれにキレたのが、伊内の反東ローマ帝国派キタコレで、そこで頭角を現したのがオレステスとな…この人のプロフィールの詳細も本書をドゾ。ある意味時代を象徴している人じゃまいか?でもって、そのオレステスの息子が、「紀元四七五年十月三十一日、ロムルス・アウグストゥスは皇帝に就任した」とな…15歳の少年皇帝登場ってか?一応、海の向うには「皇帝ネポスがいたにもかかわらず」ですが、何か?でもー何でもありだな、西ローマってか(笑)

 ところが新皇帝反対の声が北伊のローマ軍の蛮族出身の将軍達から上がったのである…で、武力闘争ですよ、奥さん(誰?)頭目はオドアケルだそで、勿論オドアケル側の勝利で、オレステス殺害、ロムムス・アウグストゥス退位となるとな…それが紀元476年の秋…

 結局、最後にどーなったのかとゆーと、そして誰もいなくなったじゃないけど、この後、誰も帝位につかなったとゆー事らすぃ…で、それと共に西ローマ帝国ジ・エンドって事に…だから一体いつ帝国が消滅したのか、その日時は誰も知らないの世界なんだそな…一大帝国の最後がこれってありですかぁーっ?実にあっけなくね?

 他にもたくさんたくさん本当にたくさんエピ満載ですので、興味のある方は本書をドゾ。西ローマ帝国の消滅については何も言えねぇかなぁ…日本人的には祇園精舎の鐘の音、盛者必衰の理を表すそのものじゃねですけど…

 まっ日本人的につながりで本書で一番ハーヘーホーと思わされたとこを一つ。「制海権を失うとは、こういうことであったのだ。海を舞台に好き勝手に振舞う無法者の進行を、それを押さえる海軍力がないままに座視するしかないという状態である。制海権と聴くと軍事上のことに限られると思いがちだが、それが失われて誰よりも先に、また誰よりも大きな被害をこうむるのは、常のことながら一般の人なのであった」の件じゃね(笑)ええ、どこぞの諸島とか、どこぞのくnゴホンゴホン…

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