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2017年8月13日 (日)

眺望?

街道をゆく 九  司馬遼太郎  朝日新聞社

 今回の旅路は、潟のみち、播州揖保川・室津みち、高野山みち、信州佐久平みちの四つなんですが、だいたいその道沿いを旅して、その歴史、幕末から前、戦国、室町、後上代なんかが多いよーな気がするんだが、今回の潟のみちは、今でしょ(死語?)よりちょい前位のお話がメインかなぁ…

 新潟が何故にいがたというか分かる気にされられるとゆーか…新潟の米作りと土地作りの神髄?執念を見た?とゆーか…何かもー凄いとしか言えねぇ…そこまでして人はお米作ってきたんですねぇ…もーなみなみならぬお話なので、詳細は本書をドゾ。新潟人、ものすごーく体力ありそーな悪寒ってか(笑)トライアスロンとか、得意そー?

 また、山崎なんて出てくると、ウイスキーのイメージで、あれって確か大阪だったよな?ですけど、兵庫、本書でいうと播州の西?の山の方にもあるのか?もしかして山崎ってとこは日本全国にいぱーいってか?歴史的には、黒田官兵衛が秀吉に姫路城渡して、家族と引っ越して一時滞在したとこらすぃんだが?そーだったのか?官兵衛?

 「織田信長のごときは早い時期に上方をおさえていながら、中国への入口である播州へ進出するのにその晩年の長い歳月を費やしてしまい、大官の羽柴秀吉によって播州の平定を見たとき、本能寺で死んだ」とな…とゆー事で、今の距離感と当時の距離感を同じにしちゃあかんぜよって事らすぃ…

 それに今だと兵庫って完全に近畿圏のイメージだけど、「古代出雲の勢力圏は、その後の分国の出雲国よりもはるかに大きかったということは、各地に分布している古社の祭神をみてもわかる」のだそな…「因幡、丹波、但馬、播磨なども古代出雲圏であったことはまぎれもな」いとゆー事らすぃ…よーするにこれらの地を切り開いたのは出雲人であったんじゃね?って事だろか?

 また、「兵庫県では江戸期の城はいくつもないが、しかし中世以来の山城をかぞえると二百ほどもあった。山崎のような狭溢地でも、まわりの山々に城跡がいくつもある」って、そーだったのか?兵庫?

 ちなみに山崎小学校はお城の跡地に建っているそで、一昔前までは校門がお城の大手門だったって、ホンマでっかぁーっ?それはそれで壮観な学校って事にならね?

 アリス的には、海奈良で、高野山みちのとこかなぁ?だいたいこちらの初っ端が九度山から始まりますから(笑)で、アリスの母校真田山高校で、幸村キタコレってか?

 その九度山ですが、「古い集落である。中世以来、高野山の行政や年貢の集散はこの九度山に置かれた政所がそれをつかさどった」そな…そんな訳で九度山は「きわめて小規模な城下町のような機能でもって発展し、明治後はその機能をうしなった」とゆー事になるらすぃ…

 また地理的には、九度山は「紀ノ川の流れからいきなり盛り上がった小隆起で、形をながめていると、どこかかまどに似ている。上方ではかまど、へっついの類いのことをくどと言い、女性ことばではおくどさんなど言ったりした。九度山とは、そういう連想からきた地名ではないかと思われる」って、そーだったのか?九度山?

 そしてそんな九度山に、「真田氏の父子が関ヶ原で敗れたあと、徳川氏に処罰されてこの地に配流された。やがて父の昌幸がこの九度山で老いて死に、子の幸村(信繁)が、当時、一種孤立状態にあった豊臣秀頼に招かれ、大坂に入城する」というのが歴史の流れらすぃ…それが関ヶ原と冬の陣の間って事か?

 ちなみに「真田氏は、信州では有力な地侍だったようだが、武田信玄の勢力が信州に伸びるとこの傘下に入って被官になった」そな…真田家というか、この真田三代の詳細は本書をドゾ。何はともあれ、「戦国という一つの時代が過ぎようとすると、かえって時代の典型的人物が出現して志の場違いに悩むものだし、結局、多くは志をすてて風雅の道などに入ってしまうものだが、昌幸の後半生は志をすてきれなかったところに可笑しみがあるといっていい」そな…

 よーするに、昌幸にとっての関ヶ原は天下を取れるかも?の博打だった模様…大博打の始まりじゃーそのものだったんですね、分かります(笑)

 博打の後というか、宴の後というか、で、今は真田庵キタコレってか?「正しくは、善名称院と言い、高野山の末寺で、尼寺になっている。寺は江戸初期にできたらしいが、敷地がかつての真田屋敷の跡ということで土地では真田庵とよばれて親しまれている」そな…何とゆーか、兵どもの夢の跡ってか?

 それと、信州佐久平みちのとこでも上田キタコレで、真田ですよ、奥さん(誰?)タクシーの運転手曰く「上田盆地はいいです。わりあい富んでいますし、人気(じんき)もいちばんいい。国鉄や教員を定年になった人で、老後は上田に住むという人が多いです」って、そーだったのか?上田?

 でもって、「幸村とその真田氏に対し、信州人たちは郷党の精神と気質の精粋のようなものを感じているらしく、六文銭はほとんど上田の象徴であるかのようである」そな…「真田氏というのは、上田盆地の東北の山中の真田村から興った。盆地で繁栄した海野氏の支族であることはまちがない」そな…

 かくて真田幸隆、昌幸、信之、幸村の流れの詳細については本書をドゾ。ちなみにかの六文銭の旗印は、真田的には信長が本能寺で倒れて、信州が無政府状態になった頃からじゃね?って事らすぃ…で、この旗印の元は海野氏が使用していたものとか…でも地元民は皆、自分たちは海野氏の末裔と思い込んでいるから、六文銭が立てば集えって事になるみたいで、それを利用したと…さすが真田昌幸(笑)

 で、そんな昌幸が築城したのが上田城で、そこから上田の歴史もキタコレになるらすぃ…でで、対家康戦キタコレになる訳ですが、こちらの詳細も本書をドゾ。それにしても日本の戦史において、小が大を倒すみたいなのは、源義経、楠木正成と真田昌幸位しかいないそな…ででで、その三人の中でも「徹底的に軍事的で、その巧緻さ」が芸術的なのは昌幸位しかいないとゆー事らすぃ…黒田官兵衛並に世が世なら天下に最も近かった男かもしれないのか?もしかして?

 そんな真田が上田にいたのは四十年位のもんじゃね?なんですが、「現在の上田市は「真田の上田」のつもりであり、仙石時代など記憶にほとんどなく、松平時代も、無視したい気持であるらしい」って、結局、地元民と上手くいったとこって、米沢上杉位なんだろか?どこもたいてい領民と藩政は上手くいってないよーな気がするのは気のせいか?

 蛇足ですが、「信玄は小諸城に城塞を築くことによって信州経略の足がかりとし、佐久平の米穀をもってこの基地を養った。佐久平のひとびとは、いまでも武田信玄がきらいであるらしい」とな…

 他にアリス的というと、こちらは准教授的になるのだろーか?で「真言立川流」キタコレってか?「理趣経というのが密教の奥義の経典だが、理趣経を理解することはなんでもない、としたのが真言立川流である。男女の性交という宇宙的な感動や所作こそそうである、という」でして、「理趣経にはげんに性交のことがのべられている」そで、それは「論理を代表する比喩」としてじゃね?なんですが、立川流ではそれを額面通りに受け取って、ど真ん中に据えましたが、何か?って事らすぃ…かくて「性交こそ密教本来の目的である即身成仏の道であると説いた」とな…ってドンダケェー(死語?)

 ちなみに「空海の時代よりすこし前にインドから密教を受容したチベットではラマ教を設立させた。はるか後代になってその教義がモンゴルに入るのだが、性交をもって即身成仏を暗喩する点で、立川流とかわらない」って、ホンマでっかぁーっ?「モンゴルやチベットのラマ僧は、性交を瑜伽とし、男女二根の交合をもって理趣とした」そで、その結果「ラマ僧はしきりに婦人をまじわり、モンゴルにおける梅毒の伝播者となり、この民族が人口的にも衰微していゆくもっとも有力な原因となった」って、そーだったのか?ラマ教?

 そんな訳で、「左道密教の歴史はふるい」のだそな…でもってそれに長安にいた頃から空海も「見通していたに相違なかったが、かれはそれをとらなかった」にもかかわらず、「その問流から立川流が出、平安末期にはじまり、鎌倉期から室町期に盛行し、明治維新で太政官の命で廃絶されられるまでの長い歴史のなかで真言教団の大きな部分を浸しつづけた」のだそな…

 「空海は女性が滄に近づくことは修業のさまたげとして高野山をもって女人禁制」としたにも関わらず、後継者達の中には、「性交を思想化し、性交を行法化」してまんねんって、ドンダケェー(死語?)とまぁこちらの詳細は本書をドゾ。でもって「中世末期ではこの立川流が「邪教」などというものではなく、室町期などではほとんど正密を圧するほどのものがあった」そな…

 しかも「南朝の総帥の後醍醐天皇がこの立川流に凝り、立川流最大の政治僧といわれる文観を師としたことによるらしい」って、ちなみにこの文観、「東寺の長者で、空海以来の真言宗の門流の節目としては無二ともいうべき正統の座にいた」お人らすぃ…いわば「真言密教の法王」とでもいえる正統者と後醍醐タッグ…強烈すぎて何も言えねぇ…

 蛇足ですが、北朝の天皇はとゆーと、「禅宗に凝る人が多かった」とな…「禅宗を一つの認識論としてみればまことにあっけらかんに物事を見切ってしまうという思想で、政敵への呪いや政敵を殺す調伏を事としていた当時の密教とはまるでちがった思想世界であるといっていい」ですしおすしとな…同じ仏教でも顔を向ける方向が真逆な気がするのは気のせいか?

 他にアリス的というと46番目の軽井沢で、「軽井沢という地名は、諸国にわりあい多い」そで、伊豆にも、福島にも、宮城にも軽井沢ってとこがあるらすぃ…いやぁ軽井沢という長野のソレしか頭にありませんでした…軽井沢とはまさに名前の通りの土地のとことゆー事らすぃ…「地高く、土地痩せ、「沢」を称するとはいえ、水利がよくなく、水田耕作に適しない」とこの名前らすぃ…そーだったのか?軽井沢?

 さて、他にも色々エピ満載なので、一つ一つ取り上げたら全部になってしまいそーなので、幾つかピックアップすると、「明治期には、思想、政治、あるいは芸術のいろいろな分野で謀反人あるいはひらきなおった抵抗者が出たが、それらの多くは旧大藩の地の出身か、大都会の出身者だった」そで、「旧小藩の出身者は、篤実でやむなく従順で、学問をして官界に出たりすることが辛うじて自分を生かす道だということが、郷党の環境そのものに濃密にあり」の件は、そーだったのか?明治維新?人を生かす環境というか、規格外でも許容できるゆとりはどこにあるんだぁーっ(笑)

 他には、人としてこの人を見よというか、見てみたらなるほろなのかの?平清盛(笑)「経世家としては、頼朝以上だったであろう」で見えてしまいますたですけど、「海運をさかんにし、対宋貿易をもって立国しようとしたという点で、日本最初の重商主義の政治家だったといってもいい」とな…「清盛は公家による農地支配体制を温存したまま商業と貨幣経済を興すことに賭けた」とな…なるほろ貿易立国日本ってか?

 とゆー訳で清盛は、港湾建設、整備、造船、首都移転と、次々に計画したらすぃですけど、「当時、国民経済としての商品経済が、ほとんど無いにひとしく、いわば農民とそれを収奪する貴族だけの社会だったために、ひとびとは清盛の感覚についてゆくどころか、理解さえできなかった」のが真相か(笑)時代感覚の先を行っていた系では、信長もこの系列なんでしょかねぇ?

 も一つ、これも人々の理解系になるのか?「十九世紀末に中国に伝道できたドイツ人の若い神父が、樹木一つない風景のすさみようにおどろき、伝道するよりも植樹に専念した。樹を見れば人は人間の力以上のものがあると思う、というのが若い神父の信念で、樹のない地帯でいくら説教してもなにもならないと思い、ともかくも二十年、植樹だけをやった。やがて稚い木々ながら林ができ、ようやく伝道にとりかかろうとしたときに内乱で軍閥に追われ、中国を去った」とな…あれから四十年、もとい「十年後に再び中国にきたとき、二十年の歳月をかけた林は、住民の手でことごとく伐られていて、はなはだしく落胆したという話を、その人の友人の神父の自伝で読んだことがある」って、そーだったのか?中国?と言うよりこれが中国の正義ってか?なるほろ、緑のペンキも伝統芸能だったとか?

 他にもたくさんたくさん本当にたくさんエピ満載ですので興味のある方は本書をドゾ。個人的に一番ハーヘーホーと思わされたとこを一つ、長野のお花屋さんでのワンシーンなんですが、お花をいれとく店舗用のステレンスの桶が気に入ったので、たくさんあるから一つ譲ってもらおうとしたとこで、これはお店の備品で売り物じゃありませんとゆー押し問答になったとこ…桶購入時の価格に利益を上乗せして一つどよ?とに当時の価格が問い合わせてもわからないとか…当事者の交渉時では結構マジなんだろーけど、傍目には喜劇にしか見えないのは何故なんだぜ…

 してさんざん手間かけた結果、いいかげんな値段はつけられないからお断りって事で著者購入ならずの顛末に…それに対しての著者の感想が「そこまで面倒を見てくれて気持がよかったが、しかし何だかソ連の売店で物を買っているような感じも、しないではなかった」って(笑)たかが桶、されど桶ってか(笑)

 目次参照  目次 国内

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