« 春よ、まだ見ぬ春… | トップページ | ろーりんぐすとーん? »

2017年8月18日 (金)

浄・明・正・直♪

世界に誇れる「和のこころ」  田中正洋  文芸社

 サブタイトルが、知っておきたい神社・神道のあれこれ、なんですが、ある意味、日本の歴史だろか(笑)まーよーするに神道とは土着であるになるんじゃね?かなぁ…「神道の祭祀形態は縄文時代(約一万六千年前~約二千三百年前)に生まれたものです。縄文時代の私たちの祖先は、すべてのものに霊魂があると信じ、人々はその霊魂をまつっていました(アニミズム)」ってか?

 そゆ訳で古代人とは「天候・地震・災害・火災など、人力の及ばないものに畏怖を感じていました(自然崇拝)」もあると思いますらすぃ…ただ、天変地異キタコレであったとしても「私たちの祖先の日本民俗は、これらの大自然の驚異に対して恨んだり、憎んだりはせず、受け入れ、大きな被害をこうむることがないように神に祈り、天災の去った後は神に感謝するこころを持っていました」になるとな…

 まっ色々あってなで詳細は本書をドゾですが、「祭祀の場を恒常的な場所として生まれたのが「神社」です」になったと…ちなみに「古い時代の神社は、祭りの日に集まって神を祭るために、別置されていた霊場だった」(@柳田國男)という事になるらすぃ…

 古代は「先祖の古墳の近く、山の入り口、森のあるところなどに神が降臨される場を設けたのです。聖域に樹木や枝を立てて祭壇としたものが神籬。神霊の依り代として祭祀の対象となった岩が磐座、岩や石を積み並べて造られたものを磐境といい、神社の原型となり、「まつり」が行われていました」とな…

 でもって、「その霊場に屋根をつけ、屋代(社)としました。「屋」('建物)そのものではなく、屋を建てるための区域を意味しています」となるらすぃ…

 「この神を迎えるための小屋や祭壇である屋代で行われる「まつり」が、しばしば行われるようになると、常設の社殿が造られるようになりました。これが「ミヤ」です」「「ミヤ」とは「御屋」で、尊い建物を意味します」とな…何とゆーか、神社はじめて物語(?)なかなかにアレなよーな気がするのは気のせいか(笑)

 まぁともかく、神社キタコレになった場所ってのは「他の場所とは一線を画す神聖な場所でした。そのため注連縄や玉垣で区域を分け(結界)、樹木の多く繁っていました」になるらすぃ…神域、聖域、キタコレってか?

 アリス的には、神社…大阪的には住吉大社になるんだろーか?アリス?

 他にアリス的というと、仏教vs.神道ファイッのとこで、あの蘇我対物部キタコレなんですが「最後には厩戸皇子が大阪の地に四天王の仏像をを刻んで祈ったところ、蘇我氏の士気が高まり、物部軍を一気に破ったと伝えられています(丁未の乱・五八七年)」ってとこでしょか?四天王寺的に?

 さて、神社が建った建ったクララが建ったになったのは、六世紀半ばに仏教伝来キタコレで、大寺院が建立されたじゃまいかで、「これに倣って飛鳥時代末(七世紀)には、現在のような神社が建設されました」になったとな(笑)

 ちなみに日本の神社って、二つのタイプに分かれるらすぃ…一つが「その土地の人々が集団で五穀豊穣を祈願し、感謝する神様をまつる神社」「そこに住む血縁関係の人々の祖先をまつった神社」の事を「産土型神社」と言うそーな…でもって、「ある神社の御祭神の御霊を、遠く離れた土地に分けていただいて鎮めまつった神社」を「勧請型神社」言うそーな…

 まぁ古代には、仏教との対立とか、神道排斥とか色々あったよーですが、天武天皇の時代には、「仏教と神道か共存するようになりました」とな…ちなみにこの頃の「神社は、寺院と区別するため日本古来の太い柱と茅葺きの屋根を持ち、神道で重んじる稲を収穫するための稲倉の姿を模した神社建築様式で造られました」とな…

 と、時代は奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、そして明治、大正、昭和、平成と続く訳で…こちらの神道、神社の変遷の詳細は本書をドゾ。

 幾つかピックアップすると、延喜式神名帳とか平安時代にありますたの世界だろか?「これは「延喜式」という平安時代の法令の「施行細目」が九二七年に完成され、その一部に「神名帳」があり、全国二千八百六十一社が記載されています。これらの神社を総称して「式内社」と呼んでいます」そな…

 ちなみに「「式内社」は、朝廷の役人である神祇官が幣帛を奉られる官社です。官社に幣帛を奉ることを班幣、伊勢の「神宮」に対しては奉幣といいますが、全国の官社に役人(神祇官)が直接奉幣する官幣社と、国司が役人に代わって奉幣する国幣社とに大別されました」とな…

 ちなみにちなみに「「式内社」の分布は、機内を中心に選ばれており、都から遠く離れた遠国では数少なく、その国や都を代表する有力な神社に限られています。今から一千百年程前に、国家から官社として幣帛が奉られ、かつ、国家の正式な記録にその社名が残されていることは驚異であるとしか思われません。特に、都から離れた遠国の「式内社」は、如何に由緒深い神社かを物語っています」とゆー事になるらすぃ…何とゆーか、その頃から日本って記録魔だったんだなぁ(笑)

 後は、源頼朝が「源氏は清和天皇の流れをくむ清和源氏を唱えましたので、皇室保護のため神宮への配慮や経済面での援助などに努めました」とな…まぁそんな訳か知らないが、「この時代から庶民にも神宮は身近な存在になります」ですしおすし(笑)

 他には、武家というと八幡神社キタコレですけど、「九州の「宇佐八幡宮」を淵源とする八幡神への信仰は、中世に宇佐八幡宮から京都の「石清水八幡宮」へ信仰の中心が移りました。これは貞観元年(八五九年)に宇佐八幡宮に参詣した僧行教が、宇佐の神から「都の近くに移座したい」との御宣託を受け、京都の「男山山頂」に創建したのが「石清水八幡宮」であると、縁起に残っています」ってホンマでっかぁーっ?

 でもって「八幡神=応神天皇とされ、朝廷や仏教と結びついたことで、「石清水八幡宮」は伊勢の「神宮」に次ぐ第二の宗廟とされ、皇室からも格別な信仰を集め、歴代天皇や上皇の行幸が煩雑に行われました」とな…石清水八幡宮ってそんなに格式高い神社だったとは知りませんでした…

 も一つ、神道パネェでは、吉田神道もキタコレになるのだろぉか?「戦国時代に京都の「吉田神社」の神主である卜部(後の吉田)兼倶が八角形をした風変わりな神殿を造りました。そこは日本のあらゆる神々を一か所に集めてまつるという神社でありました。こうして吉田家は神祇行政の実質を握ることになりました。この神道流派を「吉田神道」といいます」って、そーだったのか?吉田神道…

 更にこの吉田神道の凄いとこは「江戸時代にはさらに地方の中小神社の社家(仏教を習合しない、神道のみ伝習し神社を守る家)に対し、神道裁許状を発行することを幕府から認められ、社家の跡目相続では、上京し礼金を納入しなければ認められませんでした」って、地獄の沙汰だけでなく、神様の沙汰も金次第ってか…

 とまぁ、日本の神道って…なよもやま話がいぱーいってか…他にもたくさんたくさん本当にたくさんエピ満載ですので、興味のある方は本書をドゾ。

 それにしても今日本にお寺って「約七万六千」あって、僧侶は「三十一万人」いらっさるそな…それに対して神社の方は「約八万八百」あって、神職は「二万一千五百人」だそな…こーして見ると、仏教より神道の方がコスパいいんだろか?それとも仏教の方が、これまた皆まで言うなか(笑)

 目次参照  目次 文化・芸術

|

« 春よ、まだ見ぬ春… | トップページ | ろーりんぐすとーん? »

文化・芸術」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 浄・明・正・直♪:

« 春よ、まだ見ぬ春… | トップページ | ろーりんぐすとーん? »