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2017年9月23日 (土)

掃苔?

東京お墓巡り  酒井茂之  日本放送出版協会

 サブタイトルは、時代に輝いた50人なんですが、有名人のお墓巡りだろか?でもって、都内にあるお墓ですから、幕末以降というか、明治以降の人達が主だよなぁとゆー(笑)

 そんなお墓事情…どこも似たよーなもんじゃないのけ?と思えば、行けばやはり違うらすぃ?

 例えば、「総じて政治家、軍人、実業家の墓は大きく、芸術家、小説家など浮き世とは一線を画したような生き方をした人物の墓は、ささやかなものが多いようだ」そで、「森鴎外、芥川龍之介、横山大観、高村光太郎、新渡戸稲造らの墓石には名前しか刻まれていません。死はすべてを無に帰するとの考え方から、飾り立てることを拒否しているかのようです」らすぃ…ところが「軍人や政治家の墓石には、必ずといってよいほど、「大将」とか「侯爵」の肩書が刻まれています。これは、本人の栄光を後世に伝えたいという、関係者の意思が働いているからでしょう」って、ホンマでっかぁーっ?まっこれからの政治家の墓石には、本当に必要なんですか?って刻むのはどーだろぉか(笑)

 後、故人のエピも当然出てくる訳で、例えば伊能忠敬の場合は、「忠敬が生きているうちに地図は完成しなかった。やり残した仕事は至時の長男、景保に引き継がれ、忠敬が亡くなってから三年後の、文政四年(一八二一)に完成した」のだそな…でもって、ここのエピの凄いとこは「実は忠敬の死は、地図が完成するまで秘密にされていたという」でして、「地図の完成と同時にその死が公表されたのだった」とな…何かもー色々思惑ありませんねんの世界が展開していた模様…地図の世界もパネェ…

 アリス的には、文学者のお墓は外せませーんだろか?後は、朱色他の落語関係キタコレで、(初代)三遊亭円朝(全生庵/台、谷中)とかどよ?ちなみに円朝エピというより、二葉亭四迷エピになるのだろーか?で「書きあぐんでいた二葉亭四迷に対して坪内逍遥が「円朝のように書いてみたらどうか」というアドバイスをした。それに従って書いたのが「浮雲」という作品で、現在の口語文にいたる言文一致運動のきっかけになったという」なんだとか…そーだったのか?アリス?

 アリス的にはこの人を忘れてはいけないの江戸川乱歩(多磨霊園/府中)とゆー事になるんじゃね?こちらの詳細は本書をドゾですけど、乱歩のお父さんって大阪在住だったのか?も一つ「現代社会では犯罪捜査や推理過程に興味の中心を置く推理小説が全盛だが、乱歩が書きはじめたころ、日本では探偵小説は流行らないといわれていた」って、何だってぇーっ(笑)

 後、大阪関連では、中江兆民'青山霊園/港、南青山(のとこで「藩閥政治に対抗する運動を展開。しかし、保安条例にひっかかり東京追放処分を受けると、大阪で「東雲新聞」を創刊したってホンマでっかぁーっ?

 こちらはネーミングからになるのだろかで東郷平八郎(多磨霊園/府中)の場合は「明治二十七年(一八九四)に日清戦争が起きると、「浪速」の艦長として活躍」とな…

 それと、こちら天農画伯で「画家は夭折するか、もしくは長寿であるかどちらかになるようだ。夭折する画家は肺結核や栄養失調で逝くケースが見られ、長生きする人は九十歳を超えても、かくしゃくとして現役だった例が多い」って、ホンマでっかぁーっ?

 豆知識的なとこでは、内村鑑三(多磨霊園/府中)のとこで、札幌農学校(北大)へ入学しますたなんですが「このとき第一期生らにキリスト教に改宗するよう迫られたのがきっかけとなりメソジスト(プロテスタントの一派)教会のM・C・ハリスから洗礼を受けてキリスト教徒になった」そな…迫りくる宗教って…

 他に豆では森鴎外(禅林寺/三鷹)のあの脚気事件じゃまいか?かなぁ?「細菌による感染症だと主張。日露戦争において兵士に麦飯を支給するのを拒んだ。一方、海軍軍医総監となる高木兼寛は、脚気はビタミンB1の欠乏によるものだと主張。麦飯を支給していた海軍では死亡者が出なかった。このいきさつから、陸軍で三万人もの兵士が犠牲になったのは鴎外のせいだという話が伝わった。頑迷な性格が招いたこととはいえ、陸軍内部では孤立しがちだったと伝えられ、本来の職場は鴎外にとって心地よいものではなかったようだ」って…そーだったのか?文豪?

 更に国木田独歩(青山霊園/港、南青山)の場合は、「佐佐城家から勘当させてまで結婚した信子と暮らすが、貧困生活のため協議離婚するという苦悩の日々を送った」そだが、結核でお亡くなりになる時には「独歩は身重だった妻の治と、妾の奥井君子に看取られて逝った」って、ドンダケェー(死語?)と思うのは気のせいか?

 まぁ人物エピで何だかなぁばかり続くのもアレなので、北里柴三郎(青山霊園/港、南青山)にご登場願いましょうってか(笑)

 北里の評価って国内より海外での方が上だったのかで「パリに到着したときには現地の新聞が「日本の大学者、北里来る」と報じたという。その後、イギリスのケンブリッジ大学、アメリカのペンシルバニア大学、ボルチモアの病院などから細菌学の指導を要請された。しかし柴三郎は、天皇陛下から賜ったお金で結核療法の研究ができたのだから「帰国して恩義に応える所存」と伝えて帰国した」って、戦前にはまだ日本男児がおりますたって事でしょかねぇ(笑)

 そんな男気溢れる北里ですけど、帰国してからは医学界の政争キタコレで渦中の人にってか?「東大との確執で、柴三郎の活躍場所が奪われていることを聞いた福沢諭吉は、芝公園内に伝染病研究所を設立し初代所長として彼を招いた」とな…でもって「明治三十二年(一八九九)、伝染病研究所は内務省に移管されたが、諭吉は「政府の方針で、いつ施策が変わるか分からない。そのために資金を蓄えておくように」と助言したという」で、「大正三年(一九一四)、研究所が柴三郎を無視する形で文部省の管轄となって東京大学傘下に入ると、彼はただちに職を辞し三十万円の私財を投じて北里研究所を設立。その後、慶應義塾大学で医学科創設の話が持ち上がったときに、諭吉の恩にむくいるために北里研究所の俊英らを連れて尽力し、大正六年(一九一七)、慶應大学医学科の初代科長になった」そな…

 何とゆーか、福沢諭吉もそーですけど、北里柴三郎もいた戦前の偉人パネェ(笑)21世紀の今、この二人に匹敵する程の科学者、教育者がいるのだろーか?と思ふと、皆まで言うなか(笑)

 他にもたくさんたくさん本当にたくさん人もエピも満載ですので、興味のある方は本書をドゾ。本書の教訓は、墓石の大小に騙されるな、もしくはごまかされるなでしょか(笑)

 目次参照  目次 文化・芸術

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