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2017年10月24日 (火)

ローマの昔日?

須賀敦子のローマ  文・写真 大竹昭子  河出書房新社

 ミラノ、ヴェネツィアと来て、ローマ到達だろか?須賀敦子の欧州とは、仏と伊とゆー事で、特に伊は住んでいた期間が一番長いところだもんなぁ…縁があるとなれば、伊でしょか?

 須賀敦子の遍歴としては、「パリで二年間留学して帰国。しばらくは日本放送協会国際局に勤務するが、一九五八年、ふたたび日本を離れる決意をする。行き先は今度はパリではなくローマで、半年たらずで三十歳をむかえる初秋のころ、この街に到着した」そな…

 そして「ローマに来てすぐ、須賀は留学を斡旋したカトリック団体から半ば強制的にあてがわれたイタリア人の修道女が経営する郊外の学生寮に入った。だが、そこは規則ずくめで居心地が悪く、一か月いただけで、知り合いの神父が紹介してくれたテルミニ駅の近くの寮に移ったのだった」で、ローマの拠点はここになるとゆー事らすぃ…

 大まかな流れとしては、「フランスにいたころ、夏休みのあいだペルージャでイタリア語の講習を受けたことが、須賀がこの国に興味をもったきっかけだった。ローマに留学し、そこでコルシア書店の活動を知ってミラノに移り、書店のメンバーと結婚し、個人誌を発行し、日本文学の翻訳という仕事をなしとげた。そうした仕事を土台にして作家須賀敦子が誕生したのである」ですしおすし(笑)

 でもって、そのローマは、「街そのものが作家の思索の変遷にかかわっており、都市と建築物、その底に流れるヨーロッパの思想などが深く掘り下げられている」そで、「ローマは、フランスで得られなかったものを探しもとめたイタリア暮らしの出発点であり、晩年になって意識して自らを振り返った場所だった」となるらすぃ…

 そゆ背景からか、「留学時代に書かれた文章は、なにかを目指して燃えている明るい勢いにあふれている。屈託がなく、楽天的で、影を感じさせない。三十数年後に書かれた文章は、もっと陰影が深く、すべての出来事を静かに見据える深い視線につらぬかれている。理想は描かれず、さまざまな声が共鳴するポリフォニックな響きだけが聞こえてくる」に変化しているらすぃ…経験は人を育てるって奴でしょか?うーん?

 そのローマ、本書では、名所案内というか、観光地巡りというか、登場する場所が、どこかそゆとことつながっている感じがするのは気のせいか?というより、ローマにあるものは皆、必ず曰く因縁の歴史ありのよな(笑)

 例えば、須賀敦子が通ったとされるサンタンセルモ教会とか…「サンタンセルモもベネディクト派修道会の教会で、数多いローマの教会のなかでも「典礼の諸儀式の厳格さとグレゴリアン聖歌の美しさ」で知られているという。建物は比較的新しく、こぢんまりとしていて、なにも特別なところがないその「ふつうさ」に安堵感を覚えた」とゆーよーなとこらすぃ…

 アリス的には、ペリクレ・ファッツィーニのとこかなぁ?芸術家的に?現代彫刻家とゆー事で、天農画伯キタコレってか?須賀敦子との親交があった模様でこちらの詳細は本書をドゾ。ちなみにファッツィーニは「気難しいところのない、おおらかな人物で、作品を創ること以外になにも興味がなかった」とゆー、まさに芸術家そのものの人物だったよーで…

 後、ナタリア・ギンズブルグだろか?作家的に?こちらも、須賀敦子と親交のあった人物らすぃ…「須賀は「ある家族の会話」「マンゾーニ家の人々」「モンテ・フェルモの丘の家」とギンズブルグの作品を三つ翻訳しているが、とくに最初に訳した「ある家族の会話」との出会いは大きく、作家須賀敦子が誕生する契機となったといえるだろう」なご縁らすぃ…

 そんなギンズブルグは、「家庭にあっては妻、母、祖母であり、社会においては作家であり、初期には編集者としての経験もあり、のみならず上院議員として政治に参加した期間もあった。現実世界で人にまみれ、虚構の世界に入って一人になる。いくつもの顔を生きたナタリアの全体を支えるエネルギーが、虚実の往復運動の中から生まれていたのではないだろうか」って、伊のキャリアウーマンというか、肝っ玉母さんそのもののよーな気がするのは気のせいか?

 それはともかく、ギンズブルグの作品は、須賀敦子にとって「こういうものを自分も書いてみたいと思わせる小説。書くことへの構えを解いてくれる作品。「ある家族の会話」の力はそこにあった」となるらすぃ…「小説ぶらない、エッセーのかたちをとりながら、登場人物を虚構化するための文体を、翻訳作業をつうじて探ったのであった」そで、「八四年に翻訳の連載が終わると、いよいよ自分の作品を書いてはどうかと編集者にもちかけられ、約一年後にそれがスタートした」というのが、作家須賀敦子誕生の経緯らすぃ…

 も一人、作家として須賀敦子にインパクトを与えたお人としてユルスナール来たぁーっとなるらすぃ…何とゆーか、ユルスナールも戦争によって欧州から米に行かざるを得なかったお人で、その半生も凄いのでこちらの詳細は本書をドゾ。

 それから、生前に須賀敦子を語るで、まずはマリ・ノエル院長でしょか?ローマの寮の?こちらの詳細も本書をドゾですが、西洋と東洋を考察する上で、「ヨーロッパの個人のとらえ方に、実存にかかわる問題を解くための糸口があると「私」は信じていたが、マリ・ノエル院長は逆に「自分にきびしいあまり、他人まで孤立させてしまう」とフランス人の個人主義をきびしく批判した。そんなとき「私」の意思を超えて言葉が走った。「あなたには無駄なことに見えるかもしれないけれど、私たちは、まず個人主義を見きわめるところから歩き出さないと、なにも始めたことにならないんです」多感な十代を戦争一色で塗りつぶされ、個の頼りなさを実感した世代にとって、個人の声をはっきり発する西欧社会に理想を見いだしたのは、自然の成り行きだったと言えるだろう」の件かなぁ…院長と須賀の個人主義とは何か?激突してまする(笑)

 で、東洋人も「強い個を育てる精神的な支柱がキリスト教なのだ」でキタコレになったけど、現地で「韓国人のキムさんや、テレーズというベトナム人の修道女など、寮で一緒だったアジア人の友人は、異国の暮らしにとけこめず精神を病んでいく」の件も合わせてどよ…

 「アジアと欧米を自由に行き来しながら、価値を相対化して生きるいまの世代とちがい、須賀の世代は、自分の生き方を求めるためにひとつの価値世界とまっこうから向き合わなければならなかった」ですしおすし…「日本と西欧いう二項対立的な価値の相克をくぐり抜けたあとに、自分にはどちらも必要だ、と確信をもって言えるようになったことの意味は大きい。書くという行為はそこからはじまったと言えるのであり、実際、曲線的な語りの中に論理的思考を織り込んだ須賀の文体は、「自分にはどちらも必要だ」と宣言する彼女の、たしかな証となっているのである」そな…なるほろ、二者択一ではなくて、二者融合とな?

 この戦後の価値観の崩壊というのは、当時の日本人にとって相当にアレだったんだろか?は、「十八歳の誕生日をむかえてまもなく、須賀は洗礼を受ける。戦争が終わって二年目に入り、これからどう生きていけばいいのかわからない深い喪失感の中で、精神的な支柱を求めたのだった」で、両親反対、祖母賛成の詳細は本書をドゾ。おばあちゃん、マジ日本人って感じだなぁ(笑)

 かくて「翌年に妹良子が洗礼を受け、のちには母万寿と父豊治郎も信者になった」そな…

 そんな訳で、「聖心女子大学を卒業した年、須賀は修道生活に入ることを考え、各地の修道院を巡っている。女性が結婚せずに学問をつづけていくには、修道女になるのがひとつの選択だったからだが、それを認めるくらいなら勉強をつづけさせるほうがまだましだという親の判断から、慶応大学大学院に進学を決める」そで、でも社学より、西洋哲学や、新しい神学の方にひかれましたとゆー事らすぃ…そして仏へ、やがて伊へとゆーのが須賀敦子の人生ってか?

 そんなローマにいたころ親交があった人物その二で、濱尾文郎神父でしょか?「日本人ではじめてヴァチカンの大司教になり、トラステヴェレの教皇庁につとめていた」って、今でしょ(死語?)ってか?当時の氏は、「神学を修めるためにローマに留学したのは一九五一年、須賀とよく行き来したのは五〇年代の終りだった」そな…「当時、濱尾神父はボルケーゼ公園のそばのカルメル会修道会の教会で、日曜日ごとにローマ在住の日本人のためにミサをあげていた。ミサのあとは教会のむかいにあるヴァチカンの日本大使公邸に移って子供たちと遊ぶのが恒例になっており、その子供たちの世話を須賀が一緒に手伝ってくれたという」伊大使ってカトリック教徒だったのか?

 ジョルジョ・アミトラーノによると「須賀さんは、自分の作品を書く前から、作家のような話し方をしました」というお人だったらすぃ…それにしても作家のよーな話し方って、どんな話し方なんだろー?アリス?

 「「作家のような話し方」とはどのような話し方を言うのだろうか。作品を読むときに、なぜ、このように書いたのかと作者に問いかけ、その対話が成立するかどうかによって作品の価値を判断する。作家と作品を過度に切り離すこともなければ、作家の生い立ちや性格を直截に作品と結びつけることもしない。作家が生まれもった資質と、人生の過程で得た素材と、醸成させた思想がどのように作品化されているかを、自分の生と重ねあわせて学びとろうとする態度、つまりは書くことを生き方の問題としてとらえるということなのではないだろうか」って、そーだったのか?アリス?

 後、作家性のとこでは、「過去=廃墟をさかのぼり、その内側をなぞり、いま生きている自分の内面と照らし合わせる。過去が遠い冷たい存在から、多くのものを語りかけてくるなぐさめに満ちたものに変わる。そこまでくれば、作家の誕生まであともう一歩だった」の件は、そーなんだろか?アリス?

 それから、「須賀は文学至上主義に強い抵抗を示し、安易に文学に接近しまいという頑固なまでのストイシズムを自己に課していた。無頼派の私小説を「どてら着て威ばっているみたいな文学」と言ったのを覚えている。もしかしたら、文学への憧れが強いゆえに、文学を絶対視する自分の危険性に気付いていたのかもしれない」の件も、日本の小説というと、私小説キタコレなのは、中の人も思うところなのか(笑)

 そんな、「体験をもとにした回想記から書きはじめ、しだいにフィクションの部分を多くして自己を語るようになった須賀が、つぎにめざしていたのは小説だった」とな…

 ちなみに「文学の起源は共同体の祈りにあるが、共同体が分散して人が個として祈るようになると、文学と宗教とのあいだに溝が生まれた」…ここでも、二項対立キタコレなんだろか?そして須賀敦子は、文学を選択してもその底には信仰があるとゆー事らすぃ…何かこーして見ると須賀敦子という人は、物事を突き詰めずにはいられないタイプだったんじゃなかろーか?ふと、須賀敦子が物理に進んでいたら、面白い事になっていたんじゃね?と夢想してみるテストとか(笑)

 須賀敦子の足跡を辿る旅とゆー事で、ジュリア街キタコレってか?「留学時代から三十年以上が過ぎた一九九一年、須賀はローマ大学で講義するため長期にわたってローマに滞在し、前半は友人のところに泊まった。その友人宅がヴィア・ジュリアのそばにあり、ある日、昼食のためのワインを買いに出て偶然にその道をみつけたのだった」そな…

 たかが道一つと侮るなかれってか…「ヴィア・ジュリアはルネッサンス期に造られたローマで最初の直線路だった。それを知って「私」は、それまではローマにすらまっすぐな街路という概念が存在しなかったのかと驚く」となるらすぃ…須賀的に言うなら「中世の勝手気ままな曲線に対する、ルネッサンスの整理された直線」となるのだろーか?何か古代都市というと、真っ直ぐな碁盤の目みたいなイメージを持っていたんですけど、それって京都とか、長安とかに感化されすぎか(笑)

 お次はパンテオンで、「パンテオンの最初の建物は、都市建設に情熱をそそいだアウグストゥスの腹心アグリッパによって建てられ、その後、ハドリアヌス帝によって再建されたといわれる」建物ですねん…ちなみにドーム型はハドリアヌスによりまんねんらすぃ…

 須賀が初めてパンテオンを見た時にはハドリアヌス帝はローマの歴代皇帝の一人にすぎなかったけど、マルグリット・ユルスナールきたこれで、ハドリアヌス帝もキタコレになったらすぃ…

 そして、サン・ピエトロ寺院で聖霊降臨祭に行ってみますたかなぁ?「今年は特別にヨハネス(ジョヴァンニ)二十三世の柩の封印を解いて遺骸を祭壇にまつる」とな…ちなみにこのヨハネス二十三世は、「第二ヴァチカン公会議を招集して教会の民主化を唱えた。コルシア書店の活動にも大きな関わりを持った教皇だった。「パパ・ヴォーノ」(よきパパ)と呼ばれて、歴代の教皇の中でとりわけ深く慕われてきたが、今年は聖霊降臨祭が彼の命日とつづきの日にあたるため、三十八年ぶりに教皇墓地から彼の柩を掘りおこし、開封することになったのでする」って、そんな事もあるんですねぇ…

 ちなみに「ヨハネス二十三世が教皇になったのは一九五八年、須賀がローマに着いて間もない十月二十五日のことだった」そな…「教皇ピオ十二世が旅先で亡くなったのは十月九日、「私」が最初の寮からテルミニ駅の近くの寮に引っ越した翌日のことだった」そで、須賀と、時の教皇、実に同時代的だなぁと…それにしても、ヨハネス二十三世って、ヴェネツィア大司教だったのか?なるほろ、開明派と思うのは気のせいか?

 蛇足ですけど、開封されたヨハネス二十三世の遺骸なんですが、腐敗なし生前と同じ状態を保っていたそな…一時は奇跡だと大騒ぎになったけど、種明かしすれば「防腐処理」しますたですしおすし…何とゆーか、レーニン廟と教皇廟のやっている事が似たよーなもんなとこが、欧州的にはジャスティスなんでしょかねぇ?

 それから聖天使城どよ?で、「骨室につづく細い階段の先には、歴代の教皇の居室という思いがけない空間が待っていた。ニコラウス三世のとき、聖天使城は教皇の所有になり、それ以降贅を極めた改修が繰り返しおこなわれた。もとは台座の部分に土盛りして空中庭園が造られ、その上にギリシア風の小神殿が建っていたというが、その姿を想像できるものはなにも残されていない。暗い螺旋階段を登ってきた目に、豪華なフレスコ画に覆われた部屋は唐突すぎて虚ろに見えた」と続く、聖天使城についての詳細は本書をドゾ。聖天使城というと、ダヴィンチ・コードの続編に出てきたとこだったよーな?記憶が薄っすらと?

 も一つ観光名所じゃないけど、ヴィラ・アドリアーナ…ハドリアヌス帝の離宮ですけど、こちらの詳細も本書をドゾ。ローマ郊外のティヴォリの街はずれにあるそな…ローマからだと地下鉄とバスと徒歩で一日がかりのお出かけになるらすぃ…

 さて、須賀敦子にとっての伊とは、「信仰や共同体への興味は、その延長線上に浮上してきたものだし、イタリアに惹かれたのもたぶんおなじ理由からだった。論理的思考に長けたフランス人からは、知を吸収することはできても、それを存在に結びつける方法が見いだせなかったからである」じゃね?また「知性を表に出さずにつつみこんでしまうイタリア人の懐の深さ、たましいの大きさを讃えている。現実生活の中でも、肉をともなった人間の大きさに目をみはることが多かったにちがいない」とな…まぁ確かに、トーシロでも仏より伊の方が建前より本音って気がするしなぁ(笑)

 豆知識的には、ローマでの道路の横断の仕方…「道を横断する人がいると、車は停止せずにスピードをさげて歩行者の速度に合わせる。停まってくれるものと思っていると、車がどんどん接近してくるのでぎくっとするが、ここで走ったり、立ちどまったりしてはいけない。相手はこちらの歩行の速度を読んで走っているのだから、その速度を乱さぬようにおなじペースで渡ることが肝心である」って、そーだったのか?ローマ?というか伊?まぁ欧州の自動車はめったな事では停まらないよな気がするのは気のせいか(笑)

 も一つローマ豆で、「ローマの街は地図で見るよりずっと広くてとりとめがなく、全体をつかみにくい。道も碁盤目状のところがあるかと思えば、斜めの道が乱暴にそれを横切っていたりして、うっかりしているととんでもない方向に行ってしまう」とな…

 他にもたくさんたくさん本当にたくさんエピ満載ですので、興味のある方は本書をドゾ。

 目次参照  目次 国外

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