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2017年10月28日 (土)

鳥や雲や夢さえも掴もうとしている?

須賀敦子のフランス  文・稲葉由紀子 写真・稲葉宏爾  河出書房新社

 前の三冊と著者が違うので、多少雰囲気が違うかなぁ?かなぁ?ですが、デザインが同じなので、見た目はそっくりってか(笑)何とゆーか、須賀敦子のヨーロッパって、仏と伊で、伊が居住の場としたら、仏は旅人の場かなぁ?はーるばる来たぜ、西欧ってな感じの?

 なので、本書は須賀敦子の仏での思い出の地巡りみたいなノリのよーな気がする?住んでいたとゆーよりも、訪れたみたいな?この感覚の違いは大きいよーな気がするのは気のせいか?

 例えば、「一九五四年六月半ばの金曜日、須賀敦子はシャルトルに向かう学生の巡礼の列にいた。パリ・モンパルナス駅を前々夜に発ち、ランブイユ駅で仮眠したのち、四十キロの道程を二日かけて歩きとおす。信仰について討論を重ねながら、ボース平野の麦畑を進む巡礼の旅」とゆーシャルトル大聖堂キタコレとか…

 そしてもう一度、「十七年後の一九七一年七月、須賀敦子はまた、このシャルトルのカテドラルを訪れた。ペッピーノの死後、四年暮らしたミラノを引き払い、日本に帰国することを決心。車でフランスに入り、各地のエマウスをまわって、国際ワークキャンプに参加する。その旅の途中でシャルトルに立ち寄っている」そな…

 ちなみに今でしょ(死語?)の学生たちのシャルトル巡礼は、「現在も続いている」そーなんですが、「三万人と書かれていた参加者数は、いまははるかに減って四千人程度。それも、当時のようなカトリック左派を中心にした学生たちは姿を消し、また一方では、伝統主義的で保守的な、いわゆる原理主義系グループが分裂して別の日に巡礼を行うようになり、往時の盛り上がりは見られなくなってしまった。巡礼の時期も、三月の「枝の主日」の週末にと変わっている」のだそな…何とゆーか、カトリック内にも右やら左やらあったのか?でもって分裂…派閥?派閥なのか?

 まぁ変わったのはそれだけではなくて、現地そのものも変化している模様で、「五十年の歳月は、フランスの穀倉といわれるボース平野さえも遠慮なく浸食しているようだ」ですしおすし…

 そんな中たどり着いたシャルトル大聖堂は、「二つの塔が空に屹立していた。左には、レースのような装飾に覆われたゴシック様式の「新塔」。右には、それよりすこし低い、飾りのない素朴なロマネスク様式の「旧塔」。二つの塔の異なるリズムをがっちりと抱きとめる、力強いファサード。そしてそのみごとな均衡の主軸となっているのが、中央のばら窓と「王たちの扉口」だ」そな…どれだけの月日が流れよーと大聖堂はそこにあるってか(笑)

 アリス的に、仏…うーん、関係あるとしたらサント・ジュヌヴィエーヴ図書館かなぁ…「パンテオン広場の北側の一角に、パンテオンとは対照的に背の低い、端正な横長の建物がある」そで、そこが「学生時代に須賀が通った」図書館とゆー事になるらすぃ…建物は「十九世紀の新古典様式で、窓の下の壁面には、学問に貢献した人々の名前がずらりと彫りこまれている」「この図書館には、四千冊の中世の写本と四万点の版画をふくむ、約二百万冊の書物が収蔵されている」そな…

 ちなみに仏には、「パレ・ロワイヤルの旧国立図書館やポンピドー・センターの図書館などたまに行くと、その蔵書・資料の豊かさに、宝の山の真ん中に飛び込んだような心持ちになる。そして、それらの閲覧やコピーが、思ったよりずっと簡単にできることに、さらに驚かされる。資料を集めて保存するのも文化、それを万人に気前よく利用させるのも文化。その両方の意味で、この国の文化の歴史はなかなかすごい、と改めて気づかされるのだ」の件が、現代仏図書館事情でしょか?文化っていうのは開かれてこそってか(笑)

 他にアリス的というと、菩提樹荘のとこで、「ペルージャの菩提樹の香り」(「プロシュッティ先生のバスコリ」)とか、サン・ブノワは町、というよりもむしろ村で、菩提樹の繁る静かな広場を中心に」とか、あちらの街並みには普通に菩提樹ってある木なんですねぇ?

 こちらは准教授的になるのだろーか?で、大学関係でソルボンヌ来たぁーってか?「神学をこころざす学生のための、教育と宿泊の場として誕生したソルボンヌが、歴史を重ねるにつれ、しだいに権力と結びついて巨大化していった過程は、建物の様式を見ても想像できる」って、そーだったのか?ソルボンヌ?

 ちなみにソルボンヌ見学は、「ソルボンヌの構内をのぞいてみたかったけれど、フランスの学校というものは、自分がそこに属さないかぎり、部外者には勝手がわからないようにできていて、また、九〇年代に続いた爆弾テロ事件いらい、出入りのチェックが厳しくなっていて、ソルボンヌも内部を見るには、書面でパリ大学区長本部に申請を出さなければいけないという」でして、自由、平等、博愛の仏での現状って…

 仏と言えばパリきたこれでは、「一九五三年八月、四十日の船旅のあとイタリア経由でパリに着いた須賀敦子は、この坂道の途中にあるカトリック団体経営の学生寮に寄宿する」とゆー事で、ベルナダン街の学生寮来たぁーってか(笑)

 ちなみにこちらの今でしょ(死語?)は、「在俗カトリック団体の経営だった女子学生寮は、八年ほど前に民間の業者に買い取られ、若い旅行者向けの宿泊施設として再スタートしたという。内部は全面的に改装されていて、須賀たちのいたころの面影はまったく残っていないようだ」となりますたそな…資本主義ばんじゃーい(笑)

 さて、当時のパリというか仏というか、世界情勢というかが、学生生活にも直撃するのか?で、「インドシナの戦争が、五四年のディエン・ビエン・フウの戦いでフランスの敗北に終わり、同じ年にはアルジェリアで民族解放戦線が武装蜂起している。国内にいる旧植民地人やアジア人に対するフランス人の視線は、いまからは考えられないほど厳しいものだったと思う」の件は、戦争を知らない子供達には想定外ってか?

 まぁともかく、次の年の夏休みに「ペルージャ大学の外国人向けイタリア語講座で、沈んでいた彼女の心は新たに呼吸をはじめる」の件は、天候気候もあったろーけど、戦後の空気感が、仏と伊では違っていたのもあったのだろーか?何にしてもパリは身も心も寒かった模様…

 そんなパリと須賀のご縁は、「一九七一年七月、エマウスの国際ワークキャンプに参加するために、イタリアからパリに到着した須賀は、ベルナダン街の学生寮からすぐ右に曲がった、デ・ゼコール通りにある「ホテル・カリフォルニア」に宿泊する」って、パリなのにカリフォルニア?ちなみに、ホテル・カリフォルニアは今もありますよってにの「なんの変哲もない学生街の安宿」なんだそな…

 そして1996年9月、須賀敦子がパリに三日間宿泊した宿が、「ラ・ビュッシュリ通りとコルベール通りとの角にある、瀟洒な四ツ星ホテル「メリア・コルベール」とな…「カルフール・アンテルナシオナル。ホテル・カリフォルニア。ホテル・メリア・コルベール。須賀敦子がパリで滞在した三つの宿は、モベール広場を中心とするほんの直径三百メートルほどの円の範囲に、みな収まってしまう」って、単なる偶然なのか?それとも土地勘があったから?なのか?

 他にパリというと、ノートル・ダム大聖堂も来たぁーってか(笑)「ゆったりと広がる三つの扉の口に上に、塔のような収まる「王たちのギャルリー」。ばら窓の上に水平に伸びる「グランド・ギャルリー」。どちらも水平線を強調しているのに、縦に細長い列柱や彫刻の重なりによって、同時に鮮やかな垂直のリズムも感じさせる。二つのギャルリーと双塔の上部には、繊細な細工をほどこした欄干をめぐり、軽やかな印象をさらに高める」のだそな…

 それから、バリというと朝市キタコレで、須賀敦子的には「ベルナダン街に近いモベールの朝市」なんだそだが、今でしょ(死語?)では衰退してしまったそで、パリの朝市としてはモンジュ広場の朝市って事になるらすぃ…

 仏の他の地域にも目を向けてみよーで、「ロワール河沿いの聖堂の町サン・ブノワ・シュール・ロワール」来たぁーってか(笑)「オルレアンまでパリから列車で一時間あまり。サン・ブノワの町はそれからロワール河沿いに三十キロほど下流に行ったところにあるはず」な地理関係みたにいです…ちなみに「須賀は一九七一年のエマウスをめぐる旅で、シャルトルを訪ねたあと、オルレアンを経て、サン・ブノワまでわざわざ足を延ばしている。愛車のフィアット500を駆って、連日三百キロ近くも走るという教皇軍の旅だ」って…何かフィアットというとカリ城のイメージなんだが(笑)

 蛇足ですが、サン・ブノワの町の描写がパネェ(笑)仏の田舎町の通常運転が素晴らしス(笑)ですので、詳細は本書をドゾ。

 また、アヴィニョンの法王庁にも行きますたとゆー事らすぃ…尤もこちらには著者思うところがあるのか?表現がちょっと尖がっていて、「富と権力を謳歌し、世の美しいもの、きらびやかなもの、豪奢なものを独り占めにした法王の住まいが、ざわざわと旅行者が通りすぎるだけの、ただの観光名所になっている」ですしおすし…まさにつわものどものゆめのあとってか?

 ちなみに須賀敦子は多分53-5年のどこかでアヴィニョンを訪れているし、「その夏の夕べから十数年過ぎた一九七〇年の冬、ミラノに住み、暗い冷たい毎日の連続にうんざりしていた須賀敦子は、思い立って、やはりミラノ在住の山縣夫妻とともに、南仏旅行に出かける」そな…伊もミラノとなれば、仏のアヴィニョンの方が太陽の街なんですね?分かります(笑)何かアヴィニョンというと、ピカソかゴッホのイメージだけど?どよ?

 そして今度はポン・デュ・ガールの水道橋キタコレってか(笑)古代ローマの遺跡なので、実に壮観じゃね?二千年前にこれができたローマぱねぇ…ちなみにこちら、駐車場付き観光センターができて一大レジャーランド化している模様…資本主義というか、商業主義パネェ(笑)仏でも、そゆ事なんだなぁ(笑)

 ちなみに「須賀敦子は、東京で語学学校の同僚だったジャック・ヴァランに案内されて、夏の一夜、この水道橋を見にやってきた」とこらすぃ…

 今でしょ(死語?)では、「むかしは三層の橋の最上層まで自由に上れたのに、いまはいちばん下の層にしか人影がない」そで、更に車も通り抜けできた模様…ところが今は交通は勿論、歩道も手すり付きで安全第一になったらすぃ…自由放任主義とゆーか、個人主義の仏でもそゆ方向性に変わってゆくのね、らすぃ…

 後、夏の期間にライトアップもある模様(笑)「あとでパンフレットを読んでわかったのだが、この照明はやはり、観光局の夏の催しの一環で、わざわざアメリカの照明アーティストに依頼した"光の芸術"なのだという」そで、仏のセンスというより米のセンスらしく完全に米人観光客向けですね、わかります(笑)

 それから、今度はリヨンの聖心会修道院に行ってみよーってか(笑)「街を横断するソーヌとローヌの二本の河のせいか、リヨンはつねに湿気が高く、そしていったん太陽が出ると、パリと比べものにならない光量で照り付ける」とこだそな…

 そんなリヨンは「十六世紀にイタリアから伝えられた絹織物の技術が、リヨンの街に繁栄をもたらし、フランス有数の工場都市へと成長させたという。フランス人にしては珍しく、きっちりと秩序だったことの好きなリヨン人気質に、布を織るという、複雑で根気のいる作業があっていたのだろう」って、そーだったのか?リヨン人?

 ちなみ「須賀が甥のカルロを連れて、リヨンの聖心会修道院に来たのも、こんな夏の日だったはずだ」でして…夏のリヨンは暑い、これがジャスティスってか?

 まぁそれもともかく、著者は「サントル・ド・ラ・ロズレ(バラ園センター)」という「聖心会員を中心に、他の会も含めた六〇人以上のシスターたちが、共同生活を営みながら老後を過ごしている」所らすぃ…で、こちらの詳細は本書をドゾ。須賀を知る人々というか、関連の人々というかがご登場なさっておりまする…

 そして今度の舞台はプラトー・ダシーってか?「一九七一年の「日記」によれば、須賀敦子は友人の山縣夫妻とミラノを四月十七日の朝に出発、モンブラン・トンネルを抜けてシャモニー経由でプラトー・ダシーを訪ねている」そな…土地勘が全然ない己には、このプラトー・ダシーがどの辺なのかこれまた全然ピンと来ないのですが?国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だったってか?

 で、「ノートル・ダム・ド・トゥート・グラス教会は、プラトー・ダシーの村人と、そこに療養にきている病人のために、一九三七年から四六年にかけて建設された」そな…でで、「この小さな慎ましい山の教会が人々の注目を集めたのは、司祭のドヴェミ神父が、新・主教美術運動を推し進めていた教会芸術家で建築家でもあるクチュリエ神父の協力を得て、当時の著名な芸術家たちに装飾を依頼したからである。設計は地元出身の建築家ノヴァリテ」だそで、こちらの教会の詳細は本書をドゾ。なるほろ、教会に歴史ありって奴なんですね…

 ちなみに著者はロンシャンにも行って「クチュリエ神父の協力を得て、当時の建築界の第一人者ル・コルビュジェに依頼し、一九五五年に完成した、ノートル・ダム・デュ・オー教会がある」そな…「須賀の一行は、スイスからブザンソン経由でロンシャンに到着しているが、「日記」では、この教会がさんざんな評価を受けている」そな…

 建物の外観については、多分、建築関係のソレで一度は見た事があるんじゃないかのアレでして、コルビジェと言えばもー有名すぎて、今更なので詳細は本書をドゾ。

 ただ、建築物があまりに有名になりすぎたとゆーかで、地元の教会というより観光資源って感じになっている模様…「この教会は、年に数回の大巡礼集会のとき以外は定期のミサは行われない。教区民のいない教会だった」になり果てていたとな…

 「芸術が祈りの邪魔になることもある。祈りの場を造ろうと努力した芸術家の自負心が、祈りを妨げることになるとしたら、祈りのために造られる教会とは」どこにあるんだぁーってか?どーなんでしょねぇ?アマノン画伯?

 お次は、アルザスのコルマールへ…「コルマールは、「ルート・デ・ヴァン(ワイン街道)」と呼ばれるアルザスいちばんの観光コースの中心地であり、しかも国教をめぐる独仏のたび重なる攻防戦を経ても、めずらしくひどい被害を受けないままに残った都市である」そな…「一九七一年四月の、コルマールからストラスブールへと車で走り抜けた早春の旅を、のちに須賀は、かけがえのない友人のオディール修道女との雑談で思い出す」とな…

 そして「一九九六年の九月、「アルザスの曲がりくねった道」の取材旅行として実現した。このときは、パリから飛行機でスイスのバーゼルに飛び、タクシーでコルマールに入って、コルマールを起点に四日かけて近隣の町や村をまわる、という旅である」そな…

 「キンツァイム。オディールが入っていた修道院のあった村。アルザス聖心学院があった村」キタコレなんですよ、奥さん(誰?)でも、「聖心学院はずいぶん前に閉鎖され、その跡地を県が買い取って、一九九六年から日本の全寮制高校がそこに入っているという。須賀の旅の一日目に訪れているようだった」のでれっつらごと(笑)こちらの詳細も本書をドゾ。いや何とゆーか、土地の縁も凄いが、人の縁もパネェ…

 豆知識的には、パリの夏とは…「日本のおだやかな四季に慣れた人間がはじめてパリに来て経験する、涼しすぎる夏、暗い秋、長い冬は、想像以上に心細いものだ」になる模様…そーだったのか?花のパリ?

 他に豆では、食で、「食いしん坊のフランス人も、ベルギー料理には一目置いているところがあり、ベルギー出身のシェフが何人もパリの有名レストランで活躍している」そな…

 これも豆になるのか?ミシュランの緑のガイドブック…「自動車の案内しか載っていないから」現地でのバス事情なんて、でもそんなの関係ねぇー(死語?)って事で掲載されていないらすぃ…全てはミシュラン・タイヤの為にってか(笑)

 蛇足ですけど、ロワールの旅のとこでオルレアンから向かう途中で森とかも抜けるらしーのですが、その描写のとこで「「飛び出す鹿に注意」の標識がある緑の森を抜け」って、ホンマでっかぁーっ?仏、野生の鹿いぱーいってか?

 それにしてもリアルだなぁと思わされたとこは、「「悲しいこと、がまんできないことのほうがだんぜん多かった」留学生活」の件かなぁ…須賀敦子にして、ソレですから、何とゆーか、いつの時代も異国で異邦人は厳しいって事だよなぁ…

 後、逆バージョンで、須賀の文に登場する「自分の国フランスにも、好きで滞在した日本にもしっくりと落ち着けない、哀れなジャックの生き方」の件で、著者は「私のまわりにも「ジャック」は何人もいた。日本に興味を持つ、というフランス人は多かれ少なかれ、ジャック同様の「ここでないところへの憧れ」や「いまいる場所への違和感」を、心のどこかに持ってるような気がした。「憧れるこころ」が強すぎて、安定しはじめた「現在」をすぐに脱ぎ捨てたくなる人たち。そんな自分を持てあましている人たち」の件は、何か古くはゴーギャンやゴッホの世界じゃね?と思うのは気のせいか?

 今の生活にどこか不安や不満を持っていると、ここではないどこか?に憧れるのはよくある話じゃまいか?でも無条件で自分を受け入れてくれるとこかなんて、まず無いのが相場じゃね(笑)そして人は自分の思い込みが実現しないと、激しく落胆する生き物であるとか…もしくは受け入れてもらった先で、今度はその反動が襲うとか…

 他にもたくさんたくさん本当にたくさんエピ満載ですので、興味のある方は本書をドゾ。

 目次参照  目次 国外

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