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2017年11月18日 (土)

何千万という単一民族が、島の中の一ツ社会のなかで内緒ごとをささやいているような国(笑)

街道をゆく 十一  司馬遼太郎  朝日新聞社

 さて、今回の旅路は、肥前の諸街道って事で、唐津から長崎への道だろか?そゆ事で九州キタコレってか?まぁ今回は道というよりも津々浦々とゆー港巡りの旅のよな?土地勘が全くなのでアレなんですが、こちら海岸線が物凄く入り組んでいて、港がいぱーいといゆー事らすぃ…

 そんな訳で、「肥前は海岸線が皺ばんで、大小の入江が多い。紀元前、稲作農耕という新文明が北九州一円にひろがったとき、漁撈民たちは頑固に浦々に棲みつづけたることを固執した」そで、「中世にもなると、とくに肥前の西北角の浦々はことごとく剽悍な海賊の巣窟になったといっていい」で、海の時代来たぁーってか(笑)そして「中世末期に、世界史における大航海時代が勃興してくると、これらの浦々は紅毛南蛮の文化の受入れ口になった」そで、日本の西の玄関口ってこの辺りだったんだろか?

 ちなみに「平戸の海峡は十六世紀のヨーロッパの航海者のあいだでは日本名以外の名称で呼ばれていたし、また北松浦郡の湾の湾内にうかぶ鷹島は十三世紀の元寇のときの元軍の基地であったために、漢人から五竜山と名付けられたり、白骨山と名づけられたりした」そな…そーだったのか?ウルル?

 まぁともかく、著者達ご一行様は、福岡から唐津に入ると…江戸時代には唐津街道と呼ばれた国道202号を通って(笑)

 アリス的には、海奈良の赤星の実家が長崎だったよな?他には、異形のお饅頭で、唐津の松露饅頭のとこだろか(笑)

 さて、史実的にこの九州北部の沿岸線が注目されますたは何回かあって、古代の頃のエピというと、「肥前のなかでも、古代でいう末羅(古事記)の国はこの唐津湾から平戸島の島々をふくめるのであろう。「魏志」でいう末慮国である。のちに、松浦の文字をあてる」とか、「末羅国、四千余家。と「魏志」にある記述を思いださずにいられない。末羅(古事記)、万豆良(和名抄)、そしてのちに松浦といったようにさまざまの文字が当てられてきたこの古代国家は、その複雑に起伏した山々、無数の湾入部と多すぎる岬、それに島々といったようだ。小集団が独立して暮らさざるをえない地勢からして、これらを統一する王にひきいられたことはかつてなかった。せいぜい小集団の連合体が存在したにすぎない」となるらすぃ…

 また、「上代、北九州に防人が置かれた。天智天皇二年(六六三)に、衰弱した百済の応援のために派遣された日本軍が、白村江で唐・新羅連合軍のために水戦で大敗したあと、唐・新羅軍が追跡して北九州に上陸するであろうと憶測された。このため敗戦の翌年、対馬、壱岐、筑紫に烽台が設けられ、防人の軍団が以上の各地に分屯させられた」そで、松浦の辺りも一大拠点ってか?でもって東国出身の兵キタコレってか…

 平戸のとこでは、「奈良・平安初期での遣唐使船の航路はいくすじかあるが、そのうちの南島路とよばれている航路の場合、博多湾を出港したあと、大海へ出る重要な足がかりとして平戸島に寄港していた」とな…

 「奈良朝という律令国家の完成によって日本は全土が一つ国家になり、「末羅国」も古代的な土豪割拠の様相をうしない、単に松浦郡という律令体制の一部にすぎなくなる。しかし平安末期、律令制がゆるむと、大小の土豪が群立して古代の様相にもどる」そで、松浦党の下、離散、凝集していたらすぃ…

 その中でも「平戸島に拠った一派がもっとも強勢で、島主は松浦党を代表する松浦姓を称しつづけ、鎌倉・室町期を生きのび、豊臣期でも大名として公認され、徳川期に六万一千石の平戸藩を形成し、明治維新にいたる」のだそな…

 ちなみに松浦党についてですが、「松浦党の一支流である平戸松浦氏は江戸期にも大名として残るが、嵯峨源氏を称している。べつに松浦氏を称する流れに、奥州の安倍氏の裔であるとする派もある。が、各集団の盟主は千年以上のあいだにたがいに通婚しあい、ときには分裂抗争し、ときには団結して、続党として歴史をつくって行ったのにちがいない」って事らすぃ…何をと言えば、水戦キタコレってか(笑)

 「源平争乱の末期、松浦党が出現している。かれらは平家の水軍の一部を形成し、壇ノ浦の海戦で義経軍と戦って、利がなかった。元寇のときにも、出現する。水軍の一主力となり、小舟を走らせて、城楼のような元軍の軍艦にいどんでいる」そな…

 後、呼子の西隣の浦が、あの名護屋の浦で、その西隣の浦が外津浦というそーな…でもってそこが道元が宋に渡った港じゃね?みたいな話も出てきまする。でも資料的に裏付けはない模様…

 「道元が、求法のために入宋したのは、貞応二年(一二二三)の三月である」「この年の三月中旬に博多に着き、風待ちをして同月下旬に「商船ニ乗リテ纜ヲ解キ」(「建撕記」)出港したという」「道元の乗った船はやがて四月はじめに明州(のちの寧波)の港に入るのだが、途中、どういう航路をとったか、わからないらしい」とな…

 元寇キタコレだろかの「一二七四年(文永十一)の十月十九日朝のことである」に、「浜辺は、たちまちにして元軍による鎌倉武士たちの屠殺場のような情況に呈した。元軍の城楼のような大船九百隻でもって博多湾をうずめている。上陸軍は二万人であった。迎え討った九州の武士たちは、せいぜい一万騎足らずであったであろう」ですしおすし…しかも「二万の元軍のすべてがモンゴル人ではなかった。駆りたてられてきて漢人(とくに江南人)や、高麗人も多数まじっていた」そな…

 また、武器が違いまっせで、半弓じゃね?で、小型で軽く取り扱いの簡単、射程距離も日本の弓の倍ってドンダケェー(死語?)更に「かれらは草原で狩猟するとき、けものを確実に仕止めるために鏃に毒を塗っておく。この方法は、戦闘においても用いられた」ってホンマでっかぁーっ?日本側が、やぁやぁわれこそはとかの時に、相手は毒矢、戦争の次元が違うってか(笑)

 ちなみにそんなモンゴル帝国ですけど、「北アジアの草原の少数民族にすぎなかったモンゴル人が、史上のあとさきを通じて類のない規模の世界帝国を築いたが、自分自身の文化はほんのわずかしか持たなかった」そな…どゆ事とゆーと「すべて略奪主義だった」からですしおすし…

 遊牧民族は、農耕民と職人を「さげずむ」のだそな…「誇りは、略奪にあった。モンゴル人が、自民族の手で何の文化も生まなかったのは、生まないことがかれらの誇りだったのである」って、モンゴル的には略奪が文化ってか?

 そんな訳で、「西はロシア・東欧から東は朝鮮にいたるその世界帝国は、略奪を固定化するための仕組みとして存在した」となるそな…そしてモンゴル帝国は、「漢民族を卑降視してせいぜい吏員」程度の扱いしかしなかったのに「色目人(ウイグル人、イラン人、アラビア人)を重用」したとな…一因は「色目人が商業民族だったからであろう。略奪民族の感覚にもっとも近いのは商業民族だからである」というのは、なるほろコングロマリット?ウォール街?

 でもって、「モンゴル人は、自分の文化が誇るに足るほど空っぽであるために、多文化(とくに技術文化)の摂取には先入観のさまたげをうけなかった。その傾向は軍事においていちじるしかった」となるらすぃ…

 そんな訳で、騎兵の国の人だものなのに、日本侵攻においては「歩兵主義」キタコレで、漢民族の「重武装した歩兵を密集的に使用する方法」採用ってか(笑)かくて博多に歩兵軍団が大量にキタコレになったらすぃ…火器(震天雷、弩砲、ウイグル砲)etc.などの詳細も本書をドゾ。みんな他所から導入した武器ですが、何か?の世界のよな?

 蛇足ですが、モンゴル人の食事情…「モンゴル人は徹底した肉食で、野菜や米を食べず、とくに野菜については、見るだけでもふるえがくるほどに嫌う」そな…当時のの意味なのか?今もなのか?それが問題だってか?もし今もならば、モンゴル力士のみなはまはちゃんこ鍋大丈夫なんだろか?わたしきになりますっ(笑)よーするに自然、農業下げ、商業上げの位置関係ってか?

 これまたそんな訳で、歴代中国王朝とは、皆重農主義の統治じゃけんでしたけど、「元のみが例外で、重商主義であった」とな…しかも「重商主義は、本然的に侵略に結びつかざるをえない」そで、元寇も「基本的には商業的帝国という性格に根ざしてしているといってよさそうである」とな…商圏拡大には侵略が一番ってか(笑)

 まぁ商売するなら、金もってこぉーいって事で、貨幣供給量と安定性がないと発展はしないよな(笑)ある種、信用創出みたいなノリな気がするが(笑)かくて「フビライは、全国各地に「平準庫」という国立銀行を置き、各平準庫につねに銀一万二千錠を備蓄し、たれがいつ紙幣を持ってきても兌換できるようにした。商業は、信用ある貨幣が軽快に運動するという裏打ちがなければ、盛行しない」ですしおすし(笑)

 かくて「重商主義は、重農主義が培ってきた伝統的モラルをくまなく破壊する。漢民族的伝統にとっては、元という異民族に軍事的に占領されたこと以上にこの政策の被害は大きかったにちがいない」とな…金こそ全てってか(笑)日本的にはそのディープインパクトが、室町や昭和三十年代以降、更に今でしょ(死語?)って事になるのか(笑)

 話は元に戻って、まぁ金本位制というか、銀本位制というか、ぶっちゃけ貴金属の貨幣含有量を一定に保つのって、でもそんなの関係ねぇー(死語?)が歴史の必然じゃね(笑)欲で動くって、その誘惑から逃れられないよねぇ(笑)もしくは領土が増えれば、それに伴って単純に貨幣供給量も増やさないとあきまへんえって事じゃね?

 さて、「重農主義の帝国なら、人民をして食糧難の目にさえ遭わさなければ、王朝の寿命はつづくのである」そだけど、重商主義となれば、常に経済イケイケでないと、ヤバいと思いますじゃね(笑)

 そんな前振りを踏まえて、元寇キタコレは、「日本は黄金の島といえるほどに金銀を算出する、という誤った情報を、フビライは確固として信じ、崩れることなく保持していたようであった」とな…商業圏、経済圏、領土の拡大と貨幣安定供給の為の金銀という一石二鳥キタコレってか(笑)

 そして、その現場が、この九州北部の海岸線なんですよ、奥さん(誰?)「今津の浜は、第一次元寇の文永十一年(一二七四)のとき、元軍の一部が密集して上陸した地点だけに、そのあと防塁も入念に置かれた。他の防塁跡からみても、石積みなどがよほど入念なようである」とな…とゆー事で、その時の遺跡が今でも残っているのか?まぁ「たかが二メートルの変哲のない石塁を築いて世界帝国の侵略軍をふせごうとしたというのはまことに質朴というほかない」って、ドンダケェー(死語?)まぁ昔から日本って竹槍な国だものなんでしょかねぇ?

 元寇の詳細は本書をドゾですが、何事も宴の後は続く訳で、「元寇のあと、九州沿岸の水軍は朝鮮にうらみを抱いた。やがて倭寇が出現するのは、元寇の恨みを報ずるためであったという説がある。対馬や壱岐、肥前の島々には元軍によって大量に虐殺された恐怖と憎悪の伝承がまだなまなましいころに倭寇が興っているから、それが原因でなくとも、初期倭寇の気分に復讐心がまったくなかったといえば、かえってうそになる」って、ホンマでっかぁーっ?

 さて、室町戦国の頃のエピというと、唐津湾東端の虹の松原どでしょ?「もとは「二里ノ松原」とよばれたらしい。秀吉の時代に大名にとりたてられた尾張人寺沢広高が、この唐津城主となって、城を築き防風林として松原をつくった」そな…

 まぁともかく、元寇のおかげで日本人も海の向こうに世界が広がっている事を知り申したとゆー事になったらすぃ…そして貿易熱が来ると、ついでに倭寇も(笑)「人間が、生命の危険をおかして遠洋へ乗り出すという、中世の感覚でいえばおよそ非人間的なことを仕出かすというのは、貿易による商利という動機以外にない」そな…でもって「海賊専門というのは経常的な利益にならないわけで、要するに貿易が主でならなければならない」とゆー事にならね(笑)

 でもって、貿易キタコレでは平戸忘れてはあかんぜよで、「揚子江河口付近から外洋船が風と潮に乗って日本に接近する場合、この島が最後の寄港地になる」そで、「中継貿易地」来たぁーってか(笑)「室町期から戦国期から豊臣期を経て江戸初期にいたるまでこの島の松浦の殿様というのは、武将というよりも貿易業者であった」とな…

 どこと貿易するかは島(土地、港?)で決まっていたそな…「対馬は朝鮮専門であった。平戸島は朝鮮とは無縁で、中国南部ぶいり、のちに中国人から航路を教えられてやってくるポルトガル人であった。ポルトガル人につづいてスペイン船もきたことがあり、英国もここに一時期だけながら商館を持ち、最後にやってきたオランダ人がもっとも熱心にこの島との貿易に執着した」のだそな…

 てな訳で蘭の歴史についてのエピは本書をドゾ。なかなかどうして蘭の歴史の道筋も厳しいってか…で、大航海時代の貿易相手国としていろんな国がありますたですけど、最後に登場した蘭日関係がこれまたパネェとゆー事になるのか(笑)「慶長十四年(一六〇八)五月、二隻のオランダ商船が平戸に入った。のちに長崎に移り、幕末にまで至るところのながい日蘭関係が成立するのはこのときからである」で、こちらの詳細も本書をドゾですけど、平戸に蘭の商館建設キタコレってか(笑)そしてその跡地も今でしょ(死語?)で見れるらすぃ…オランダ井戸もありますよってに(笑)

 そして蘭との長い貿易になるんですけど、蘭が何でわざわざはーるばる来たぜジパングと言えば、金と銀の交換比率のおかげとな…日本と世界では全然違うので、それだけでぼろ儲けでけたとな(笑)

 さて、松浦の方に話を戻すと、戦国末期の松浦隆信(道可)キタコレってか(笑)で、こちらの詳細も本書をドゾ。

 又、兵学キタコレで、こちらの詳細も本書をドゾですが、「山鹿流兵学の家元は、江戸期を通じて、平戸藩にあった」とは知らなんだ…要約すると、松浦の殿様天祥が素行を気に入って、素行の弟を雇うと…で「その弟の家系がずっと平戸でつづいていて、幕末、長州の吉田松陰が、家学の山鹿流兵学の仕上げをすべく平戸へ行ったのである」にまでつながるのだからパネェ…でもって、そのお家が今でしょ(死語?)に至るまで続いているとこもパネェ…本書執筆当時は、山鹿さん平戸市長だったりして(笑)

 で話はちょっと戻って、平戸が中国と貿易しますたの頃…まぁ平戸が貿易業キタコレは、戦国から江戸初期の90年間位の話らすぃ…その最初は「平戸に外国の貿易船がやってくることの契機をなしたのが、王直である」でして、王直についての詳細も本書をドゾ。これは日本がというより、中国という国と人が分かるお話かなぁ(笑)一例としては、「王直は"商業"のために故国をすてた男でありながら、その思想はこの当時の一般的な中国人からすこしも出ていない。自立すればすぐ王になりたがり、王になれば自分の官属をつくるという古代以来の中国的国家学は、清朝がほろびてもなお地方軍閥の中でつづくし、あるいは新中国でさえ、内部的にはその傾向が明滅したのではないか」ですしおすし…

 そして、この対外貿易の中のそれぞれがまたパネェ…こちらの詳細も本書をドゾですけど、一例として「宣教師と一体になっているポルトガル商人たちはキリシタンぎらいの松浦候の態度に飽き、平戸をすててしまう。そのあとの平戸貿易の空白をオランダ人がうずめるのである」ですしおすし(笑)

 ちなみに「すでに商人とともに日本にきていたカトリック教国(スペイン、ポルトガル)の宣教師たちは、かれら新教徒の到来を妨害しようとした」ですしおすしで、極東の端っこでも宗教対立戦争キタコレってか(笑)

 そんな訳で、ウィリアム・アダムス来たぁーっなエピの詳細も本書をドゾ。それにしても対外交渉って、やっぱ人だなぁと思うのは気のせいか?その人となりというか、教養とか、判断力とか、気質とかが長続きするコツか?ええ、自分ファーストだと最終的に味方が全ていなくなってご退場のよな?

 でまぁ、ポルトガル人と平戸人が大喧嘩して、ポルトガル人が平戸から出て佐世保に至る一連の流れの詳細も本書をドゾ。結局、大名のキリスト教入信と貿易はワンセットという辺りが何とも…そして「肥前の大村純忠」キタコレになるのか(笑)しかも横瀬浦の土地の半分をキリシタン領として進呈までしてしまうんですから、パネェ…

 何とゆーか、九州の大名事情が透けて見えるよーで何ともアレな詳細は本書をドゾ。ただ「大名として英雄的であるか(竜造寺氏や島津氏のように)あるいはべつの事情でその座が堅牢で安定している者(平戸の松浦氏のように)は、容易に入信しなかった。これに対し、相続争いや領内に重大な矛盾をかかえている者が、たとえば大村純忠のように入信したということも、かすかながら言えそうである」とゆー事らすぃ…でも地盤が弱いとこにキリスト教が入ってきて安定したかというと…皆まで言うなの世界ってか(笑)

 蛇足ですが、この当時の欧州の航海者というのは、実に自国ファーストで、当時の航海図、地図を見ると、土地の名前がみんな自国語の自国名になっているとな(笑)「ヨーロッパの航海者というのは、じつに無遠慮なものであった」「たとえば、幕末にいたっても、英国でできた海図には、九州、瀬戸内海あたりの島や岬、海峡の多くが英国名称になっていた。つまりは、かれらが「発見」したからである」って、コロンブスの新大陸発見から、始まってすべてはかのよーにってか(笑)イイハナシだなぁ(笑)

 まぁとにかく、福田、長崎、とポルトガルは良港求めてえんやこららすぃ(笑)「ゴアとマラッカを占領してこれをアジア貿易の基地としていたポルトガル人は、中国においてはすでに珠江の河口のマカオ港を獲得していた。「日本にもマカオに相当する基地がほしい」というのは、ポルトガル側のイエスズ会に対するつよい要請であった」そな…

 かくて「港湾使用だけの段階の時期で、割譲にまで飛躍するのは後年(天正七年・一五七九)のことである」とな…「純忠が、長崎のほかに茂木もつけてイエズス会領として寄進し、イエズス会がこれを受けるのは、天正七年(一五七九)である」そな…茂木のイメージってこれまた枇杷しかないんだが、歴史的にそんな事があったのか?

 ちなみに「イエズス会が長崎を領地にして、最初にやったことは、領内の神社・仏閣を一軒残らず焼きはらうことだった」ですしおすし…

 そして「秀吉の国内統一の政情が九州におよぶのは、長崎が教会領になってから八年後の天正十五年(一五八七)である」でして、「次いでこの年、秀吉がキリシタン禁制を布告した」そな…更に「この年、秀吉は長崎の実情におどろき、教会領であることを停止し、ここを官地とした」そな…

 蛇足ですが、当時のというか、大航海時代前後のポルトガル事情についての詳細も本書をドゾ。今でいうヘンリケ航海王子のそれで貿易立国というか、植民地と海賊貿易というかで一大繁栄キタコレのポルトガルですけど、結局、「この重商主義のために一面農業が荒廃し、このため国民経済が破綻し、結局はそういう面から王朝そのものが衰亡せざるをえないという崖ぶちにさしかかっていた」で、EUに続くんですね、分かります(笑)

 これも蛇足ですけど、欧州船事情で、カラヴェラ船、カラック船の発明キタコレの件は本書をドゾ。よーするに大航海するには船からじゃね?

 まぁ欧州史的には、その後のポルトガルは1580年にスペインに併合されて独立を失ってしまうし、この事によって、蘭と英からは敵国認定キタコレで、大航海貿易もヤバくね?で、更に、日本人がマカオにまで船で貿易に行きますたになれば、対日貿易もヤバくね?でして、ドンドンと斜陽化していった模様…ちなみに「マカオのポルトガル軍の司令官アンドレ・ペッソア」についての詳細も本書をドゾ。いや何とゆーか、世の中でっとあおあらいぶやねんってか?

 さて、幕末になると、唐津なんかは「肥前のうちでも、佐賀県内なのである。しかし「葉隠」と藩校と明治維新とで有名な佐賀藩とは無関係で、おなじ県ながらこの旧唐津藩領は文化も気質も、旧佐賀藩領とおよそちがっている。唐津では無駄や無用のことこそ文化だという機微が共有のものになっている」らすぃ…九州ご近所事情も色々ある模様(笑)

 幕末ネタでは如何にも日本じゃねなエピでは、「開国後の日本にきたカッテンディーケというオランダ人が「海軍伝習所の日々」という日記に書いている。そのなかで、日本人の防衛観念の薄さにおどろくところがある」そで、これなんか、今でしょ(死語?)に続く日本人気質だよなぁ、国民総「のんき者」ってか(笑)なるほろ、「軍隊が防衛のためにあるというヨーロッパ風の考えはそれなりの歴史から出ているわけ」らすぃ…となると昨今の専守防衛思想って、それなりにアレなのか(笑)

 豆知識的には、呼子というと今でしょ(死語?)では、イカのイメージしかないんだけど、「湾内の自然景観は、薩摩の坊ノ津や、播州の宝津といったような上代以来の港と瓜二つといえるほどに似ている。ただ、明治以後の船舶の規模からみれば湾内は水溜まりのように狭く、結局は近代に入って近海漁業の漁港として生きるしか仕方がなくなったように思える。それだけに、港は古代以来の、どこか神寂びたにおいをしているといえるのではないか」って、そーだったのか?呼子?

 豆知識、人物編としては森蘭丸キタコレかなぁ?詳細は本書をドゾですが、「この少年が、明智光秀を好んでいなかったことが、あるいは光秀の反乱の一因になったかもしれない」って、ホンマでっかぁーっ?あの丹波の領地は蘭丸へとゆー話もあったとかなかったとか…うーん…

 また、堀久太郎と、信長、秀吉のとこの件の詳細も本書をドゾ。人間関係と政治関係パネェ…

 それから、シーボルトよりオランダ医官ポンペとか、宣教師的医学ではルイス・デ・アルメイダとかの足跡を見よかなぁ?こちらの詳細も本書をドゾ。

 他にもたくさんたくさん本当にたくさんエピ満載ですので、興味のある方は本書をドゾ。北九州の海岸線は津々浦々歴史ありの世界じゃね?

 目次参照  目次 国内

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