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2017年12月18日 (月)

さまよえる大都会?

ヒトラーのウィーン  中島義道  新潮社

 所謂一つのエッセイかなぁ?ウィーンガイド本みたいな面もあるにはあるけど、どこもヒトラー関連の名所(?)になるのか?ご当地的には、そんな事全くありませんの世界みたいだが?

 ある意味、ヒトラー青春の地であるウィーンなんですが、というのもヒトラーがウィーンに滞在したのは、ヒトラー19才(17才)から24才まで、五年三ヵ月の事なんですよ、奥さん(誰?)そして、本書はそのヒトラーがウィーン居た時の場所巡り、思い出巡りみたいなノリか?

 そして、著者も昔、ウィーンに留学経験があり、異国での異邦人、学生生活みたいな苦味というか、ウィーンに対する愛憎が半ばして重なっているとこかなぁ?ウィーンっ子から見たウィーンではなくて、余所者から見た、体験したウィーンとは何か?みたいな(笑)

 うーん、青春時代だとラビアンローズな薔薇色の人生みたいに思いがちですけど、その当時の当人にとっては、挫折感いぱーいな事多しってか(笑)

 でもって、ヒトラーというと独のイメージでしたけど、元は墺人なんですよねぇ…なので、独り立ちの出発点はウィーンからになるんだろーなぁ…そんなヒトラーとウィーンの関わり、「一九〇六年五月」のウィーン訪問一回目、「翌年受ける予定の造形美術アカデミーの下調べというほどのものであろう」で、ヒトラー17才の時の話。そして二回目の訪問は「一九〇七年九月であり、一回目の造形美術アカデミー受験のときである」そな…1908年2月、二回目の造形美術アカデミー受験の為にウィーンへ上京という流れらすぃ…そしてここからヒトラーの五年強に及ぶウィーン滞在が始まるってか?

 アリス的に、ヒトラー…201号室はさわってもいないよーな気がするが、うーん?後、ウィーンの方は、どよ?ミステリ的に舞台になりますたで、アリス的にはありか(笑)

 後、鉄オタ的には、ウィーン西駅(中央駅)あると思いますだろか?「ドイツ方面さらにはパリやベネルクスに至る国際列車が発着するターミナル駅」なんだそな…ちなみにウィーン南駅(中央駅)は、「イタリア方面や、ハンガリーやチェコなど東ヨーロッパの主要駅と繋ぐターミナル」で、ウィーンの北にはフランツ・ヨーゼフ駅があり、こちら「国内ローカル線の終着駅にすぎない」のだそな…

 ウィーン交通事情としては、20世紀初頭に「乗合馬車から乗合電車に切り替わったそで、電化は1902年とな…

 他にアリス的というより准教授的になるのか?でウィーン大学キタコレなんですが、「ドイツ語圏ではプラハのカレル大学に次ぐ歴史を誇っており(一三六五年創立)、もともとはリンクの内側の旧市街にあったが、リンクの建設とともにこの地に移転した(一八八四年完成)」そな…また「ウィーン大学の場合、まず、大学を外界から区切るキャンパスというものがない。大学の建物が企業や商店、あるいは個人の住宅その他の建物の中に混在していて、漠然と大学地帯を形成しているのだ」そな…それにしてもウィーン大学には日本科があるとは意外ですた(笑)

 てな訳で、ウィーン大学の詳細については本書をドゾ。ちなみに「ウィーン大学には(医学部など特別の場合を除き)ギムナジウム(あるいはそれに相当する高等学校)を卒業し「マトゥーラ」と呼ばれる全国一律試験に合格すれば、ほぼ自動的に入学できる」のだそな…

 後、これも准教授的になるのだろか?で、ヒトラーは「タバコを吸わなければバターが買えることを悟り、完全にタバコもやめている」そで、お酒も嗜なかったし、煙草も吸わない…しかも、若き日に粗食はともかく、権力者になっても粗食…元々潔癖症とはいえ、ヒトラーの生活の彩りって一体?ついでに言うと「性的に潔癖」だったし…更に言うと「完全に菜食主義者になったのである」にまで行き着く事になるそな…菜食主義の独裁者って、酒池肉林はどこに行ったぁーっ?

 さて、ヒトラーのウィーン滞在記は大まかに三つに分類されるそで、「第一期は西駅近くの六区(マリアヒルフ)にあるシュトゥンペル通り三十一番地に下宿していた時代」で、リンツからの唯一の友人クビツェクと同居していた時代とも言うだろか?こちらは八ヵ月で破綻…第二期が、ウィーン市内の下宿を転々とし最後には「ウィーン市の南西に位置する十二区(マイドリンク)の「浮浪者収容所」」で見かけられたという「一九〇八年十一月から一九一〇年六月までの約一年半」となり、第三期が、「ウィーン市の東北に位置する二十区(ブリギッテナウ)にあるメルデマン通り二十七番地の「独身者施設」」の三年間という事になるそな…

 でまぁ、ヒトラーのウィーンは、まずリンツから上京してきた青年は、造形美術アカデミーの受験に二度失敗して、それを同居していた友人に言えずに破局、飛び出し、落ちるとこまで落ちて、観光名所のイラストレーターになって糊口をしのぎ、兵役忌諱と父親の遺産が入った時に、独へ逃亡とゆー流れらすぃ…

 何とゆーか、都会に出て夢破れる青少年って言うのはあり勝ちな話じゃまいか?ですけど、「そうした青年はいつの時代にもいたし」じゃまいか?「その多くが自分に対する外からの客観的評価を無視できないのに対して、ヒトラーの天才は、自分に下された客観的評価を(心の中で)「無」にできること、それほどまでに自分を救うことに熱狂できることである」の件かなぁ?

 負け組の最たるもののヒトラーが、いつも自己評価は最高っていうのが、何だかなぁ…その理由が「自分だから」って、今流行りの自分ファーストの最先端にいっていたお人なんだろか?うーん?なのに、その負け組時代のウィーン時代も、無かった事にせず公開せよなんですよねぇ…権力者の自伝って嘘八百が相場ですけど、ヒトラーの嘘と真の間は生半可じゃない模様でして、こちらの詳細も本書をドゾ。

 後、リンツ時代以前のヒトラー少年期というか、子供時代についての詳細も本書をドゾ。何が凄いって、ヒトラーよりも父親のアロイスじゃね?この結婚歴は普通じゃないよな?

 ちなみにヒトラーの生誕地はブラウナウなんですが、生家には石碑が建っているそで、「平和と自由と民主主義のために、けっして再びファシズムの到来しないことを、数百万の死者が警告する」と刻まれているそな…この文言ってどこかゴホンゴホン…

 後、ヒトラーがランバッハの「教会の聖歌隊に」入っていたそで、「この修道院の紋章が彼のナチスのシンボルとなった「ハーケンクロイツ」によく似ているということである(ヒトラーは自ら考案したと言っているが)」の件は、現地的にありなのか?

 後、ヒトラーの建築(土木)とユダヤ人に対する情熱は、「ヒトラーのウィーンに対する独特の憎悪、そしてそれに奇妙な具合につながるユダヤ人憎悪は、住宅問題と深く結びついている。当時のウィーンの富の格差を、彼はシュトゥンペル通りの穴倉のような住居とリンク沿いの壮麗な建築群の格差のうちに象徴的に見ていた」そで、「大都会の「住宅問題」」は結構根深いって事らすぃ…

 も一つ、世紀末ウィーンが続くで頽廃が充満していた都市という事もあると思いますか?「当時のウィーンは、確かにある観点から見れば、ソドムやゴモラのような性的頽廃の都市でもあった。エゴン・シーレは、少女のモデルを使って描いた油絵が風紀を乱すという理由で逮捕され、猥褻罪で刑務所送りになった」のが1912年の話…また「クリムトは、ウィーン大学の大講堂を飾る「哲学・法学・医学」の三枚の天井画を依頼されたが、一九〇〇年に「哲学」をまず公開すると、猥褻であるとの理由で採用を拒否された」そな…そして「男女が次々にセックスパートナーを変え、しかもセックスシーンが絶え間なく続くシュニッツラーの「輪舞」が上演禁止になったのもこのころ」って…そんな訳で、ヒトラー青年的にはこれは「道徳的頽廃」に映ったらすぃのだ(笑)

 それからヒトラーの趣味というか嗜好で、無類のワグナー好きなとこだろか?尤も「ニーチェは若いころワグナーに心酔したが、ワグナーがパイロイト祝祭劇場を建設し、権力者ルートヴィヒ二世に近づいていくうちに、その俗物性を全身で嫌悪するようになった」そーだが(笑)

 そんな訳で、「ヒトラーが権力を掌握すると、ワグナーの息子の妻ヴィニフレッドがヒトラーに近づいていく。そして、ニーチェの妹のエリーザベトも、ヒトラーに擦り寄って莫大な資金を得て、ワイマールにゲーテに並ぶニーチェの記念堂を建てる」にまで至っていたりして…ある意味、「いつしかワイマールとバイロイトを結ぶドイツ文化の守護神の位置に立ってしまった」ヒトラーってか…

 そんなヒトラーですが、「彼にとって作曲家としてのマーラーは(ワグナーの直系であるはずだが)どうでもよく、当時大人気のリヒャルト・シュトラウスにも眼もくれなかった」そな…ただひたすらにワグナー一本槍なお人だったらすぃ…

 その他詳細は本書をドゾですけど、ヒトラーの芸術的スタンスは、「造形美術アカデミーに合格することを至上命令とし、リンクを縁飾りのように彩る大仰で時代遅れの建築群に手放しで感動するヒトラーは、いかにも田舎者である」と著者は断を下していまする…東京だよ、おっかさんってか?うーん…

 そして、ユダヤ人の方ですけど、よーはウィーンのユダヤ人を見たとゆー事か?で、例えば当時、「ユダヤ人は全ウィーンの人口二百万人のうち八・八パーセント」だったそーですが、「ウィーン大学の学生のうち二七・五パーセントがユダヤ人であった」そな…

 でもって、ヒトラーがウィーンにいた頃のウィーン市長、カール・ルエガー来たぁーってか?彼の履歴の詳細は本書をドゾですが、「皇帝フランツ=ヨーゼフをしのぐほどの絶大な人気があった」お人らすぃ…「彼は、古色蒼然としたウィーンを近代都市に変貌させた」そで、彼の支持層というのが「彼自身の出身階級である手工業者や商人あるいは未熟練労働者から成る下層(旧)中産階級であり、禁欲的なつましい生活を続け、熱心に教会に通い、どこまでも実直でまじめな保守的なカトリック教徒であった。そして、こうした実直な人々が最も過激な反ユダヤ主義者であったことを忘れてはならない」そな…

 そゆ事で、ルエガーが「キリスト教社会党を率いてまず国会に進出し、そこでもユダヤ人を攻撃して憚らなかった。「ユダヤ人が誰であるかは私が決める」とは、彼の有名な台詞である」って、ホンマでっかぁーっ?さて、「当時のウィーン市長は市民によって直接選ばれるが、最終的には皇帝が承認することが条件であった」そで、「ユダヤ人はじめ多民族から成っているハプスブルク帝国を維持するためにはこうした露骨な反ユダヤ主義の主張は好ましくないとして、フランツ=ヨーゼフは三度も彼の承認を拒否した」そで、四度目の正直ってか(笑)

 この「カール・ルエガーの姿勢を、ヒトラーはとりわけ高く評価している」そで、ゲオルグ・フォン・シューネラーを凌駕しているとな…こちらの詳細も本書をドゾ。

 まぁ、カール・ルエガーは1910年3月10日にお亡くなりになっておりまする…「筋金入りの反ユダヤ主義者、カール・ルエガーが、まさにそれゆえに市民のあいだで皇帝に勝る人気を得て、五期もウィーン市長を務めた」訳でして、しかも、今でしょ(死語?)も、ルエガーが「反ユダヤ主義者として咎められないばかりか、ウィーン大学前のリンクは「カール・ルエガー博士リンク」のままであり、西駅前のヨーロッパ広場には、カール・ルエガーを讃える石碑が聳え立っている」そな…これが墺の正義か?

 後、今でしょ(死語?)の国会議事堂案内ツアーのとこの件も合わせてドゾかなぁ…墺的スタンスって一体?一応こちらで開催されている「政治史に関する展覧会は、オーストリアがいかに民主的な国家であったかを強調するものであった」そな…

 取り合えず、ヒトラーの頃の帝国議会とはどよ?とゆーと、まずオーストリア・ハンガリー二重帝国ありきで、「オーストリア帝国が多民族国家を維持するためにできた最後の自己防衛策であって、ハンガリー民族の独立を半ば(以上)認め、オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねるという変則的な政体であったが、これにより他の民族の自決運動に火をつける結果ともなった」そな…

 そして、その時に「最も不平を唱えたのがチェコ民族であり、ハプスブルク帝国はさらに「三重君主国」を建設することは不可能であるがゆえに、さまざまな形でチェコ人との融和策を講ぜざるをえなかった」そな…プラハの春の国だもの?はともかく、そんな訳でこちらはこちらで「チェコに対する不満」キタコレ状態だったらすぃ…

 そゆ帝国議会の当時でしょ(?)は、「多民族国家というタテマエ」と「近代民主主義国家というタテマエ」で、「議場の醜態」を極め、「民主主義の最も愚かな面」が浮き彫りになる結果になった模様…

 まっチェコ人はともかく、ユダヤ人に戻ると…「当時は、かなりの数のウィーン市民の中にユダヤ人嫌悪が渦巻いていたのであり、それがあったからこそ、反ユダヤ主義を露骨に掲げて市長選に打って出たカール・ルエガーは圧倒的な勝利を収め、皇帝を凌ぐほどの人気を維持できたのである」ですしおすし…が現状だったらすぃ…

 ヒトラーと反ユダヤ主義、鶏が先か?卵が先か?なかなかにシビアな話になってくる模様…こちらの詳細も本書をドゾ。いつの時代もプロパガンダって…

 とはいえ、晩年、「ヒトラーは大真面目で第三帝国を組織し、大真面目でヨーロッパ支配を志し、大真面目でユダヤ人全滅を意図し実行したのである。その異様な真面目さに夥しい人は惹きつけられたのだ。そこに、私利私欲が一滴も含まれていない「純粋な動機」を見て取ったのである」と著者は断言していらっさいまする…律義者の正義パネェ…

 まぁヒトラーの好みって言うのが鷲の巣のとこで「あくまでも健康的で清潔で明るく、しかも何の技巧もないままに非の打ち所のない美しい場所なのだ。素朴な農民たちが節度を持って暮らす穏やかで清楚な土地、これが、彼にとっての「ドイツ人のドイツ」を象徴するものなのだろう」に対し、「その理想の対極に不潔なユダヤ人が、ウィーン世紀末の不健康で頽廃した文化があったのだ」になるらすぃ…

 墺の歴史的流れでは、「一八〇六年、神聖ローマ皇帝フランツ二世は自ら退位し(オーストリア皇帝フランツ一世となり)、ここに千年に及ぶ神聖ローマ帝国は幕を閉じた」そで、「一八〇九年十月十四日に、ナポレオンがこのシェーンブルンで、オーストリアとの和約を締結した」そな、しかも「ナポレオンはフランツ一世の娘マリー・ルイーズと結婚、その子ナポレオン二世は生まれながらのローマ王(皇太子)であり、幼年時よりここで幽閉されたような生活を送った後に、わずか二十一歳にしてここで死んだ」って…そーだったのか?ナポレオン二世?

 そしてナポレオンが「エルバ島に流された後、ヨーロッパの秩序を回復するための権謀術数が飛び交うウィーン会議が招集されたのも(一八一四~一五年)、ここシェーンブルンである」そな…会議は踊るってか(笑)

 少し飛んで、「一八八九年一月三十日、皇太子ルドルフはマイヤーリンクの狩の館でハンガリーの下級貴族マリー・ヴェツェラと共に謎の死を遂げている」そな…更に皇妃エリーザベトも「一八九八年九月十日、スイスのレマン湖畔でアナーキスト、ルケーニに刺されて死ぬ」ですしおすし…

 ちなみに「ルドルフ亡きあと、従兄弟(カール=ルートヴィヒの息子)のフランツ=フェルディナントが皇太子の地位についたが、彼は十一年後の一九〇〇年六月二十八日に身分のきわめて低い貴族の娘ゾフィー・ホテックとの結婚を断行した」そな…

 1908年の墺とゆーと、「この年、皇帝在位六十周年の行事が華々しく行われた」そで、墺が「ボスニア=ヘルツェゴビナを併合した」もありまっせと…

 1914年6月28日、皇太子夫妻、「サラエヴォで銃殺」かくて「第一次世界大戦」勃発、「ハプスブルク帝国」の崩壊キタコレってか…ちなみに「フェルディナントの死後、皇太子は甥(弟オットー=フランツ=ヨーゼフの息子)、カールが継いだ」そで、「彼はその三年前の一九一一年十月二十一日にブルボン=パルマ家の娘ツィタと結婚」していたそな…

 そして1916年、カールは「フランツ=ヨーゼフの死により、ハプスブルク帝国最後の皇帝に即位」する事になると…

 1918年にハプスブルク帝国滅亡、皇帝夫妻はスイスへ、皇妃ツィタは「夫と必死の思いでハンガリー王・王妃という地位だけは確保しようと奔走するがそれもならず、七人の子供たちを連れて北大西洋のポルトガル領マディラ島に逃亡」、その後、「一家はスペイン、ベルギーと転々とした後、アメリカに渡る」とな…

 一方、墺では「国民議会は、彼らがハプスブルク一族の統治権およびすべての特権を永久に放棄するという法案を可決し、彼らがオーストリアに留まっていれば、生命・身体の安全も保障されない、と宣告する」キタコレとな…

 ちなみに皇帝カールは「一九二二年四月一日にマデイラ島で客死」、皇妃ツィタは長男オットー(九歳)の戴冠式を行ったとな…更に「ツィタは、オットーが十八歳になると、伝統に則ってハプスブルク家の当主としての成人式を挙行した」そな…そんなオットーですけど、「オットーが正式に「退位」を表明したのはじつに一九六一年のことであり、彼は一九六六年にオーストリアへの入国を許されている」そな…

 一方、ツィタの方は「最後まで「皇妃」という称号を捨てることを拒否した」そな…ツィタ伝説の詳細は本書をドゾ。いやぁ女は弱けど母は強しを地で行くお人じゃなかろーか?ちなみに「ツィタは一九八九年三月十四日に九十六歳で亡くなった。四月一日に葬儀が挙行され、シュテファン広場にはハプスブルク家やブルボン家をはじめとするヨーロッパ屈指の名門貴族たち二百人あまり、それにウィーン市民二万人が集まってツィタを見送った」そな…

 ただ、ツィタ伝説で一つだけ、「彼女はヒトラーが政権を握ってから、ローズヴェルト大統領に三度も会っていた。時には、ハンガリー王妃として「接見した」というのだから、したたか者である」って…しかも「「ナチス敗北のさいには、ドナウ周辺国家を、民主主義を基調にした中欧連合国家にしたい」旨の共同コミュニケまで出している」って、そーだったのか?ホワイトハウス?

 蛇足ですが、米ってパネェで、「ヒトラーの異母兄であるアロイス(Jr.)の息子ウィリアム=パトリックもまた、アメリカ各地でヒトラーの甥という触れ込みで講演旅行をし荒稼ぎをしていた」ってホンマでっかぁーっ?「彼はまず叔父のヒトラーに権力者の甥としての「おこぼれ」をもらおうと近づこうとしたが拒否され、アメリカに渡った。そして、彼もまたローズヴェルトに手紙を書き、アメリカ政府によるヒトラーの心理分析に協力し、さらに駄目押しとしては、アメリカ海軍に入って、ヒトラーのドイツ軍と戦い(実際に戦闘に加わったかどうかは不明であるが)、表彰までされたのである」ですしおすし…

 蛇足の蛇足ですが、このウィリアム=パトリック・ヒトラーは、「自分の長男をアドルフと名づけた」そーですから…とにかく父親を筆頭にヒトラー家の人達って、皆それぞれにアクの強さが半端ねぇでござるでこちらの詳細も本書をドゾ。

 も一つ、「二〇一一年七月十六日、オットー・フォン・ハプスブルクの(国葬に準じた)葬儀があった。彼は最後の皇帝カールと最後の皇妃ツィタの長男であり、死の四年前まで六百人を超えると言われるハプスブルク家の当主であった」そな…「古色蒼然とした大々的な葬儀」の詳細も本書をドゾ。まぁ、右もあれば左もあるのはどの国も同じよーで、「皇帝廟が面するノイエマルクトを囲んで設けられた鉄の柵に小さな広告が掲げれていた。オットー・ハプスブルクの葬儀には涙一滴も税金一滴も費やしてはならない」とな…

 墺的豆としては、「オーストリアでは、有名人に関連のある建物には、すべてオーストリア国旗とともに「この建物に〇〇〇〇年~〇〇〇〇年のあいだ、××××が住む」と書いたプレートが埋め込まれている」そな…そーだったのか?墺?でも、ヒトラー関連のとこは「ヒトラーの記憶はことごとく剥ぎ落されていた」で、表記なんてそんなのありませーんがデフォらすぃ…

 それから、墺の大家事情、「ウィーンの大家は「ウンターミーター」を置いても、「自分の家」という意識が強いので、ああしてはいけない、こうしてはいけないという注文がうるさく、勝手に部屋に入ってくることがある」って、ホンマでっかぁーっ?ウィーンにおけるプライバシーって、一体?

 そんなウィーンの住宅事情の今でしょ(死語?)というか、20世紀末でも、「コンクリートの集合住宅は意外に多い」そでなんですが、「ある週刊誌には、電気や水道もまともに使えない住宅が一割はあると書いてあった」って、ホンマでっかぁーっ?

 でもって、ウィーン市内の住居って「裕福な者は何軒もの貸家を持っているからウィーンの住宅の四分の一が空き家である」って、ドンダケェー(死語?)しかもウィーンって、「区のレベルで住宅地のランクが確定してしまう」そで、「十九区、十八区、十三区が「御三家」」であり、他に「先祖代々から家のある中央の一区、三区などが評価の高いところ」らすぃ…東京で言うとこの田園調布とか、成城とか、白金みたいなもんか?

 それから国立歌劇場、「舞台がほとんど見えない席が少なくない」そな…まだ、それは座れるだけでもマシな方で、更に立見席もありますよってにらすぃ…「立ち見席はパルテールと呼ばれる平土間席の奥、バルコンと呼ばれる二階席の奥と両側、それにガレリーの奥と両側に設置されている」そな…

 日本的なとこでは、著者の留学エピのとこで、まずは下宿探しが難航してるとこで、まぁどこの国でも外国人の家探しは大変だと思われですけど、ここでの断られ方の一つが「「日本人は清潔でないから」と断られたり」の件は、ウィーンって潔癖症の人達が主流なんだろか?と素朴な疑問が?

 さて、最後にヒトラーは、アイシャルリターンで、「一九三八年三月十二日、ヒトラー率いるナチスドイツは国境を越え、オーストリア国内に入った。いわゆるオーストリア併合である」キタコレってか…で「三月十五日、ヒトラーは十万人のウィーン市民を前に、ここで演説した」というのが、その名もズバリ英雄広場とゆーんですよ、奥さん(誰?)

 さてさて、著者の後書きにあるのですが「一九三四年八月、ヒトラーは総統兼宰相として全権力を掌握する」そで、「少年時代・青年時代を通じて、まったくの「落ちこぼれ」で、後の「成功」の片鱗も示さなかった男が、あっという間に運命の女神の寵愛を全身に受けてするすると最高権力者にまで上り詰める。こういう人は、私の知る限り他にいない。あらゆる英雄は、少なくとも青年時代には、「双葉より芳しい」ものを持っているが、ヒトラーの場合、三十歳までそのほのかな香りさえないのだ」の件はホンマでっかぁーっ?

 こーして見るとヒトラーとは、ある種究極のシンデレラボーイじゃまいか?ある夜の偶然の演説から一転して勝ち組に転じる成功街道…この手の一夜にして頂点を極めてますたのソレって、たいてい最後は悲劇に終わるのがお約束のよーな気がするのも気のせいか?

 そんな訳で、他にもたくさんたくさん本当にたくさんエピ満載ですので、興味のある方は本書をドゾ。

 目次参照  目次 国外

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