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2018年2月22日 (木)

カッチ、カチやで(笑)

街道をゆく 十三  司馬遼太郎  朝日新聞社

 今回の旅は、街道というより海道だろか?本書、たいていいつもタクシーで移動とゆー事で、その土地の道を走るみたいなノリは、これまたいつもの事なんですが、本書での移動もメインはタクシーなんですけど、土地感がないせーか?その移動距離がピンと来なくて、歩きましたとか、タクシーで行きましたとか、バス貸し切りましたとか、出てくるんですけど、それはどこ?みたいな…何か、道からしてもバスが通れないみたいなのもあるみたいで…島における道路事情って一体どーなっているのか?これまたピンと来てなくて申し訳ない…

 そんな島、島国ってどこよ?とゆーと、壱岐と対馬なんですよ、奥さん(誰?)対馬は何となく玄界灘の中にあるみたいなイメージでこれまたいたんですけど、壱岐と隠岐が今一混乱している情けなさで、壱岐って対馬と九州の間にある島だったと、今回初めて位置関係を確認した体たらく…いやぁ名前だけ知っている島って、実際海のどこのあるのか?把握していないとこ多いよな…五島列島とかもどの辺か今一だよなぁ…

 とはいえ、この二つの島の歴史は古いでして、それこそ上代の昔から日本の国の人だものの世界であった模様…だいたい「上代、国都の制ができたとき」から「一国として遇せられた」ですしおすしで、しかも古事記の国生みのとこで「「次に伊伎島(壱岐)を生みき」「次に津島(対馬)ほ生みき」とあり」でして「この二つの島が上代から十分の認識をもたれていた」とな…

 そして、この二つの島は全く形状の違う土地柄とゆー事になるらすぃ…「対馬は海面からいきなり鋸の歯を乱立させたような山国で、水流もすくなく」て、農耕には不向きの土地だったのに対して、「壱岐は、全島のすがたがカレーライスの皿を伏せたように平たく、多少の水流もあり、どこをとっても田畑ができる」そな…

 でもって壱岐は「むかしから野道が丘や野を越えて網の目のように発達している」のだそな…更に「壱岐は、どこを歩いても風が野と段丘と林を吹きわたっている」そで…後、歴史的な遺物の果てでは狼煙台があったらすぃ…この島だけで14台もあったゆーから、凄い…白村江の戦いの後、防人とか、まさにここは日本のリメスの一つだったんだなぁ…

 ちなみに今でしょ(死語?)だとこちらは長崎県になるらすぃが、県内で「二番目の広潤な平野で、穀倉地帯」なんだそな…ちなみに「戦国末期から明治維新まで壱岐は平戸藩の領地」だったそで…

 アリス的には、壱岐と対馬…うーん、どちらも島って事で、ミステリ的にはクローズドサークルものキタコレか?

 他にアリス的というと朱色他の占いキタコレで、卜占、太占のとこだろか?「上代の日本語では卜占をウラという。ウワを活用させてウラナフ、ウラトフ、ウラフ、ウラハフといったりするが、ともかくも卜占は古代世界の科学であった」ってホンマでっかぁーっ?それはともかく、「専門の神道者がこの術を用いたが、かれらの奇妙さは壱岐・対馬に集中的にいたということである」そで、「大和の王朝がわざわざ玄界灘の洋上からかれらをよんで宮廷の科学を担当させた」そな…

 でもって、「この卜占術は主として太占である」そな…「フトマニとは動物の骨(主として鹿の肩骨)を焼いてそのひび割れのかたち(占状)をもって吉凶をうらなうもので、のちに亀の甲を焼くようになり、あるいは鹿卜、亀卜ともある時代には入りまじって存在した」とな…

 この手の「卜占は、中国の神代ともいうべき殷王朝にすでにあった」そで、こちらの詳細は本書をドゾ。

 時代的には物凄い開きがあるけど、「日本の壱岐・対馬に漂着して根付いた卜占は」「朝鮮から」キタコレって事らしく、更に言えば「動物の骨や甲を焼いて卜占するという習風は、漢民族特有のものではない」って、ホンマでっかぁーっ?中国から半島下って日本に流れついたパターンかと思っていたら「北アジアで牧畜する非漢民族のものでもあって、むしろ朝鮮半島にはそちらのほうの系統のものが南下し定着したにちがいない」って事らすぃ…

 ちなみに「朝鮮半島には漢が直轄領を置いたから漢以後の風は入った」んだそな…とはいえ、「魏が亀卜の風をもっていたとは思えない」そで、はるか北アジアのそれがどーゆー経路にせよ、対馬・壱岐に流れ着いたとゆー事らすぃ…何だかなぁ(笑)

 まぁこれもアリス的に入るんだろーなぁの京都関連のそれで「日本書紀」の「顕宗の三年二月のくだりに、阿閉臣事代という者が任那に使いした。おそらく壱岐に寄港したのであろう。壱岐人が奉じていた神である月神(のちの月読命)が取り憑いて、わしをまつれ、と命じた。阿閉臣がみやこに帰って報告したところ、顕宗はそれを容れ、歌荒樔田(いまの京都市のうち)にこれをまつったという」で、これが「京都の松尾大社」なんだそな…「わざわざ壱岐から壱岐県主押見(忍見)宿祢をよんで祭祀させたという」ですしおすし…神社の縁起ってパネェ…松尾大社って確かお酒の神様のよーな気がしていたんだが、実は月の神様で、もしかして卜占もあると思いますだったんだろか?うーん?

 まぁともかく、「上代日本の宮廷に卜部氏というものが多いに活躍することになるのである」ですしおすし…「大宝律令制定(七〇一)のとき、神祇官の職掌名として「卜部」という者が二十人置かれることになった。壱岐から五人、対馬から十人、そして伊豆から五人という割で、卜術のすぐれた者が都によばれ、吏員になった」のだそな…それにしても、壱岐や対馬はともかく、伊豆からってどゆ事?方向が全く違うよーな気がするんだが?鹿と亀が多かったんだろか?うーん?

 ちなみに「壱岐で卜占を扱ったのは、壱岐氏」って、どこまでも壱岐なのか?ちなみに「壱岐氏の姓は直で、のち宿祢を賜わった。つまり壱岐氏に連」はないそな…この辺りは上代の身分キタコレになるのだろか?うーん?

 さて、鹿卜は考古学的にもあると思いますで、「後期弥生式土器とともに日本の数ヵ所から出土している」そで、今でしょ(死語?)でも「鹿卜の神事をのこしている神社が、全国にいくつかある」のだそな…この「動物の骨を焼いて吉凶をうらなうというのは、古代の北アジアの諸民族-中国からみれば蛮族-一般の習俗で、日本にかぎったことではない」そな…

 中国での太占についての詳細は本書をドゾ。まぁとにかく大陸から対馬、壱岐に占入って来ますたで、日本の上代でも統治者の必須アイテムだった模様…かくて、対馬、壱岐から占者が街にやってくるで、大和からのスポットライト来たぁーっ人材流出キタコレだったらすぃ…

 そんな訳で、三世紀頃(?)に骨卜キタコレで、六世紀から七世紀になると鹿なんて古いよね?今は亀でしょって事で亀卜になったらすぃ…何事にも流行はあるんですねぇ(笑)

 他にアリス的というと曾根のとこかなぁ?農業用語で「石まじりの痩地」を指すらすぃ…「大阪府の豊中市に曾根という地名があり、また大阪市内の曽根崎心中の曽根崎という地名があるが、おそらくそういう石ころの多い痩地だったのではないか」って、そーだったのか?アリス?

 壱岐・及び対馬の島内の詳細は本書をドゾ。同じ島なのに、こーも違うのかとゆーエピ満載だろか?それにしても、壱岐の頃はほのぼのした雰囲気なんだが、対馬に行くとその手の雰囲気はほぼないとこが凄い…なので本書も前半はまだアレなんだが、後半は今でしょ(死語?)に続く葛藤しきりといったとこか?

 とゆーのも、本書的にはタクシーの違いが凄くて、同じ日本とは思えない程の相違があり〼の世界の模様…詳細はこれまた本書をドゾですが、壱岐のタクシーでは「他のどの運転手も物柔らかで、たとえば古神道的な祭祀の場所にくるとだれもが帽子をとって頭をさげていたし、客に対する言葉づかいも、農村の儀礼どおりで、旅人にとって床しげにおもわれた」から、お察しください…

 まぁそんな訳で、簡単に想像がつくけど「壱岐人と対馬人は、仲がよくない」そで…どこも隣人とはアレなのはお約束ってか(笑)それにしても対馬には、バーが「七、八十軒」もあるらしーが、壱岐には一番の街でも二、三軒というから、大きく見積もっても二桁はないんじゃね?で、同じ島なのにこの違いは大きくなかろか?これで対馬が物凄く豊かなら話は分かるが…うーん…

 対馬は「山ばかりで、その山も岩の質が硬く、削っても畑をつくることができず、また山をめぐる道すらけものみちのように細い」のだそな…その傾向は魏志倭人伝の昔から変わらず続いているらすぃ…

 そんな訳で、壱岐の農村文化vs.対馬の漁村文化ファイッて事になっている模様…まさに価値観の違いキタコレってか(笑)

 それにしても漁村文化って敬語がないのか、もしかして?「江戸時代末期まで日本でもっとも高度な漁業技術を開発しつづけてきた紀州沿岸と泉州(大阪府泉北・泉南郡)沿岸では方言に敬語がなく、明治のときに国定教科書に接するまで敬語なしの文化をもちつづけていた」って、そーだったのか?アリス?大阪言葉と言ったら船場言葉かと思ってますた…

 まっそゆ訳か、どゆ訳かで、対馬から見た壱岐は、「ずるか」で、壱岐から見た対馬は「バカ」なんだそな…価値観の相違ってパネェ…この場合土地柄ってパネェになるのだろーか?うーん…

 後対馬史を見る場合、元寇といい、対明貿易、対半島貿易と、対外的な問題の方が大きくね?に見えるんだが、こちらの詳細は本書をドゾ。

 後、そんな訳で対馬には大陸・半島色が残っていると思いますかと思いきや、「方言にも、指摘が可能な痕跡というのはなさそうである」そで、「対馬人の体型は、朝鮮型よりもむしろ瀬戸内海沿岸地方に類似しているといわれる」そな…

 それから対馬の黒歴史としては「対馬の農村には、明治初年まで下人がいた」の件かなぁ…「犯罪者を奴隷におとし、藩主が家来に下賜するというもので、室町期までさかのぼると、売買されていたらしい」ってホンマでっかぁーっ?しかも「歴とした奴隷制で、日本の他地方に例がない」ですしおすし…対馬藩パネェ…でこちらの詳細も本書をドゾ。

 他に、幕末の勤皇・佐幕の争いにおいての敗者への対馬藩と平戸藩の対応がこれまた凄い…「平戸によびかえされて壱岐に流された」で「殺さずに流したというのは、いかにも平戸藩のおだやかさといっていい」に対して、「対馬藩では長州風の過激分子をほとんど殺してしまった」ですしおすし…

 まぁともかく、豆的には、壱岐って雪って字をあててた頃もありますたとな…「壱岐という漢字をあてて定着するには、多少の時間がかかった」そで、「「延喜式」で壱岐と書くからこれが広まったところだろうか」なんだそな…「「万葉集」では他に由吉」とあるし、「「和名抄」では由岐」で伊支もあるそな…「「懐風藻」(七五一年に成立)」に雪があるらすぃ…何かもー当て字のオンパレードな気がするのは気のせいか(笑)

 平戸藩による壱岐の行政的には、農村の触と漁村の浦に分けたのだそな…浦は八つ、触は九十九あったそな…触の上に在があって、こちらが二十四あったそな…でもって在ごとに庄屋がいたらすぃ…こちらの詳細も本書をドゾ。割替制度とか…何とゆーか、色々ありますけど、ほぼどの農家も平等性が保たれていた模様…それが崩れたのが維新後というから、皆まで言うなか…

 も一つ、壱岐のエピとしてへぇーっと思わされたのが河合曾良のお墓があるそな…あの奥の細道の芭蕉の同行者のあの曾良ですよ、奥さん(誰?)ちなみに曾良って「信州の上諏訪」の人だそーですから、もしかしてその足跡は北から南まで及んでいたんだろか?何故か巡検視になって壱岐まで行く羽目になった模様で、こちらの詳細は本書をドゾ。

 それと壱岐にあるお寺は、殆どが禅宗か真言宗だそで、浄土真宗はなく、日蓮宗も一寺しかないそな…

 対馬の豆としては、古墳キタコレだろか?例えば「鶏地には、古墳も多い」ですしおすしで、しかも「前方後円墳も一基ある」でして、前方後円墳の起源は大和でして、そっすると「よほど古い時代に、畿内文化がこういう形で対馬に入っているのである」ですしおすし…

 それと対馬の一の宮、海神神社(伊豆山)でしょか?もーネーミングからして海でしょの世界が展開している模様…尤も、「中世のいつのころか八幡宮にかわり」明治後に社名を戻したというから、神社事情も色々とある模様…

 他に豆としては、家系図ってインチキ多しらしーが、その中の例外が社家のものなんだそな…というのも「社家には血縁信仰があり、血脈相続者が祖神を斎くことが信仰の基本になっているから」なんだそな…「とくに奈良町、卜部氏-壱岐氏-が王朝の神祇官として現役であった当時のそのくだりは信用していい」になるらすぃ…なるほろ、血脈信仰って占い系に強しなのか?

 神社つながりで、八幡信仰キタコレでは、「天台・真言の加持祈祷という強力な効能に押されてしまった土着の信仰が、あらたに効能のかたちをとって出現しなおしたものといっていい」なんだそな…「もし効能で神道を一新させなければ、奈良朝末から平安朝にかけての時代に日本の神々などはほろんでいたにちがいない」ってホンマでっかぁーっ?まっともかくそんな訳で「神道に密教的要素が濃厚に入るのが、八幡、天満、八坂信仰で、鎌倉期までこの三つの系統が全国に色合いを変えてしまった」という事らすぃ…

 それと、日本の大名って土地を私有していなかったそで、「大名は租税の徴収権をもつだけ」だったらすぃ…だから「江戸屋敷にしても、幕府から拝領した上屋敷以外の中屋敷、下屋敷の敷地は町民から借り、借地料を払っていた」ってホンマでっかぁーっ?

 こちらは面白豆になるのだろーか?でお豆腐、「漢の高祖劉邦の孫の劉安が発明したといわれる」ってホンマでっかぁーっ?ちなみに中国のお豆腐は「日本の餅箱のようなものに入れ、売るときは包丁でたたき割るほど固い」のだそな…かっちかちやでってか?もしかして中国では豆腐の角で頭ぶつけると…

 蛇足ですけど、本書執筆時から五十年前には高知のお豆腐は「固く、荒縄でからげて持ち帰った」ものだったそな…昔のお豆腐って固いのがジャスティスだったんですねぇ?

 エピ的にハーホーヘーと思わされたとこは壱岐の教育委員会の一人が物凄くまともに仕事をしているとこかなぁ…こちらの詳細も本書をドゾ。最近だとどこも町教委というと、良い話など一つとして聞いた事がないよーな悪寒ですけど、まだこの頃はまともな職員もいたのか(笑)尤も、当時としてもアレだったようで著者も「それにしても東京都教育委員会の職員で東京の歴史、文化、経済、政治について-東京を一つの文明圏で把握するという点で-かれのような姿勢をもっている人が何人いるだろうか」と慨嘆している位ですから…当時としても何人ですから、今だと、皆まで言うなか…

 さて、対馬と言えば、この事から逃れられない「当時もいまも日本と朝鮮の関係は複雑である。隣国との関係はたがいに堂々たる他人であることが結局真の親善につながることなのだが、この原則を外すと、隣国だけにすぐ糸が鳥の巣のようにもつれてしまい、最後に感情がむき出すか、もっとわるい事態になる」は、まさに白村江の昔から今でしょ(死語?)に至るまで延々と続いてきた国家間関係じゃね?

 それにしても白村江への道は「百済は日本に救援をもとめた」のは勿論なんですけど、それよりも「日本側からいえば百済からの渡来人が宮廷の内外にひしめている状況だったから、百済へ一辺倒してゆく政策の決定にかれらが、大きく影響をあたえたというべきであろう」でして、「こんにちでいえば、利益代表議員(ロビイスト)であった」は言いえて妙じゃね?いつの時代もロビーって…

 まぁその後の対新羅外交についての詳細も本書をドゾですが、「遣新羅使というのは、和親を旨としながら、実際は体面外交であり、具体的には虚喝と虚飾にみちた文章と儀礼の投げつけあいであったようである」で、国家間条約も国際法もアレなのも歴史ありってか(笑)

 そんな新羅、朝鮮半島では新羅統一後、「朝鮮古来の氏族のよび方や名のつけ方まで廃し、中国式にしてしまった」そで、「新羅統一以前に出てくる古朝鮮風の人名が、統一以後、なくなってしまう」そな…しかも地名も残っていないそで、「全朝鮮の地名をすべて漢語漢音にしてしまうという思い切った文化大革命をやってのけた。このため、地名からも古朝鮮語が消えた」そな…

 だいたいからして古朝鮮は「固有の文字がなかった」そで、「古朝鮮が記録時代に入るやいなや、記録には漢語、漢文を用いた」そで、古朝鮮語は残っていないといゆー事らすぃ…ちなみに「古日本の場合、「古事記」と「万葉集」がのこさらたおかげで古語」が今でも残っているとゆー事になるそな…

 時代は下って、「十六世紀から十九世紀にかけて、アジアで政治体制のもっとも堅牢な国というのは、中国、朝鮮、日本の三国で、タイ国も、見様によっては加えうる」のだそで、「中国と朝鮮は、原則として鎖国であった。その国の人民が自由に他国へゆくことを禁じ、他国の商人が私的に入りこむことを禁じていた」って、鎖国というと何かと江戸時代の日本が取り沙汰されているけど、元祖鎖国は中国・朝鮮半島だったと思われでして…

 かくて「古くから鎖国だった中国、朝鮮では、鎖国が常態であったために、古代が温存それつづけただけであった」で、近世はどこに?とゆー事になるらすぃ…

 まぁともかく、よくもわるくも朝鮮出兵に直接参加していなかった徳川が天下を取り、その後の対朝鮮半島政策にもそれが如実に出ましたもあると思いますなんだろなぁで、こちらの詳細も本書をドゾ。

 ちなみにその後の新井白石と雨森芳洲の対比の詳細も本書をドゾ。ある意味、今の外務省につながる問題がここからも見えてしまいますただろか(笑)

 そんなこんなでの朝鮮通信使の詳細も本書をドゾですが、一つだけ「朝鮮と日本の関係は、ときに個人レベルでの友情も成立させがたいほどにむずかしい。そのことがすでに十八世紀初頭から存在しているのである」を、日本人は肝に銘じておかなくてはあきまへんえって事か(笑)

 それと、対外貿易で、対蘭の長崎と比べて、対朝鮮の釜山の倭館の隔離体制は全く違っていた模様…完全なる隔離で、現地人との接触は全くなしでござるだったよーで、後に日本で蘭学が盛んになるのに対して、朝鮮半島のそれは皆まで言うなか…

 というのも、倭館の日本人など「朝鮮知識人には元来倭の知的水準に対する蔑視がはなはだしく、かれらから物を学ぼうなど、馬に話しかけるようなもので、思いもよらないことであった」ですしおすし…「朝鮮における知的価値観は漢学しかなかった」そで、他の知識に対しては「朝鮮儒教の体制のもとにあっては知識人はそういうものに関心をもたず、もつことすら卑しいとされた」そで、となれば「自然、文化交流というものはなかった」にならね(笑)

 かくて「東方礼儀の国といわれただけに中国よりも儒教的理想社会に近かった。十九世紀の西洋人がアジアの停滞と驚くのだが、停滞こそ儒教の価値観にあうものであったろう」ですしおすし…で、なるほろ基本的価値観の相違ってゴホンゴホン…

 まっこれだけ苦労して対朝鮮貿易してきましたが、対馬藩的には困窮の一途だったよーで、「しばしば幕府に泣きついた」そな…「幕府が藩に金を貸すなど、対馬藩以外にはあまり例がなかったのではないか」とな…これまた皆まで言うなか…

 更に時代は下って、WWⅡ後、「「対馬は朝鮮領だと李永晩大統領はいっているよ」といったとき、まわりの者はみな声をあげて笑った」の件は、当時の日本人が「かつての憎むべき日本に対するブラック・ユーモアだろうと思っていたふしがある」位の感覚だったらしー…

 「ところが、李永晩氏は、本気だったらしい」で、「アメリカの国家的慣例によって、最近、一九五一年度の国務省機密文書が公開された」そで、「それが単なる冗談やこけおどしでなかった証拠に、李永晩氏はその時期の声明のあと、数年という期間、米国政府に-継続的でなくても-交渉していたことになる。いうまでもないことだが、当時日本は米軍の占領下にあったから、日本の領土権についての苦情は、米国国務省にもちこまねばならなかった」そで「一九五一年七月九日、韓国の駐米大使ヤン氏が、当時の国務長官ダレス氏に会い、対馬の領有を主張した」のだそな…

 でまぁ「李氏はまさしく申維論的な世界認識と感覚と根拠に拠ったのであろう」とな…で、「この申し入れに対し、当時の国務長官ダレス氏は、対馬は「きわめて長期間にわたり日本領土であった」(会談メモ)とごく簡潔に答え、問題を終了させている」そな…まっ日本にしても米にしても済んだ事と簡単に思ってきたのが、今でしょ(死語?)に続いている訳で(笑)

 朝鮮半島から見た、日本もしくは米と、日本もしくは米から見た朝鮮半島は、全く違くね?というのが、この頃からどころか、白村江の昔から続いていますが、何か?の世界が展開しているんじゃね?と思うのは気のせいか(笑)

 他にもたくさんたくさん本当にたくさんエピ満載ですので、興味のある方は本書をドゾ。最後に一つ、本書でハーヘーホーと思わされたとこを「私には将来を予言する能力などないが、一九八〇年代の終りには、太平洋岸メガロポリスといわれる過密社会は人口増加のために、かつて歴史が経験しなかった慢性的なヒステリー状態になるのではないか」の件かなぁ?まっ今でしょ(死語?)では、ヒステリーというより躁鬱のよーな気がしないでもないが(笑)

 目次参照  目次 国内

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