国外

2018年8月22日 (水)

摩天楼が待っている(笑)

新ニューヨークネイバース  中尊寺ゆつこ  講談社

 サブタイトルは、セレブに会えるアメリカ・ガイドなんですが、所謂一つのNYガイド本?米のアッパー事情というか、空気感が分かる感じだろか?これでも多分まだまだかもしらんが(笑)

 何とゆーか、米というと、やっぱ一番に上げる都市はNYじゃね?で、NYと言うと高層ビル群と夜景のイメージなんだが、本書を拝読して思ったのは、ステーキの国なんだろか?ですた(笑)いえ、ハイソな話題で占められている本書かな?なんですが、そゆ関連で出てくるお店のメニュー的に肉キタコレで、ステーキ率高いと思うのは気のせいか?

 何かセレブというとオーガニックな生野菜しか食べていないイメージがこれまた勝手にしていたんですが、そーでもないのだろか(笑)そんな訳で、Tボーンステーキ(ピーター・ルーガー・ステーキハウス/ウィリアムズバーグ橋を渡ってブルックリンについてすぐ)は「10人中10人がうまいと言う」ステーキなんだそな…でもって、「デザートとかあるけど肉を食ったらとっとと帰るのがここの流儀」なんだそな(笑)

 それにしても創業1887年という事は、百年以上の老舗って事に米的にはなるんだろか?しかも、今時カード不可というとこが、米でもあったんだぁーっとおろろいた(笑)うん、老舗の伝統はそーでなくちゃね(笑)

 他にもタイム・ワーナー・ビルには「ジャン・ジョルジュ・ステーキ・ハウス」なんてのもあるらしーし(笑)

 又、米っぽいなぁでは、テッドズ・モンタナ・グリルだろか?「テッド・ターナー氏が、ランチ(牧場)から経営し、そこで育てられた牛の肉を供する、こだわりのステーキ&ハンバーガー・レストランなんだそな…ちなみにこちら「中南部を中心に一五州にも広がる巨大チェーン店」だそで…そんな訳で100%米キタコレで、「アメリカ以外の要素は一つもない」そな…しかも「北米に生息する巨大牛パイソン。その肉をレモン・バターを乗せたテンダーロイン・フィレ・ステーキ」キタコレもあるそな(笑)とゆー訳で、詳細は本書をドゾですが、こちらは何とゆーか、でっかいどーほっかいどーならぬ、米そのものって感じじゃまいか?

 それにしても米肉食いまくりツアーなんてあったら凄い事になってそーだよなぁ(笑)

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2017年12月18日 (月)

さまよえる大都会?

ヒトラーのウィーン  中島義道  新潮社

 所謂一つのエッセイかなぁ?ウィーンガイド本みたいな面もあるにはあるけど、どこもヒトラー関連の名所(?)になるのか?ご当地的には、そんな事全くありませんの世界みたいだが?

 ある意味、ヒトラー青春の地であるウィーンなんですが、というのもヒトラーがウィーンに滞在したのは、ヒトラー19才(17才)から24才まで、五年三ヵ月の事なんですよ、奥さん(誰?)そして、本書はそのヒトラーがウィーン居た時の場所巡り、思い出巡りみたいなノリか?

 そして、著者も昔、ウィーンに留学経験があり、異国での異邦人、学生生活みたいな苦味というか、ウィーンに対する愛憎が半ばして重なっているとこかなぁ?ウィーンっ子から見たウィーンではなくて、余所者から見た、体験したウィーンとは何か?みたいな(笑)

 うーん、青春時代だとラビアンローズな薔薇色の人生みたいに思いがちですけど、その当時の当人にとっては、挫折感いぱーいな事多しってか(笑)

 でもって、ヒトラーというと独のイメージでしたけど、元は墺人なんですよねぇ…なので、独り立ちの出発点はウィーンからになるんだろーなぁ…そんなヒトラーとウィーンの関わり、「一九〇六年五月」のウィーン訪問一回目、「翌年受ける予定の造形美術アカデミーの下調べというほどのものであろう」で、ヒトラー17才の時の話。そして二回目の訪問は「一九〇七年九月であり、一回目の造形美術アカデミー受験のときである」そな…1908年2月、二回目の造形美術アカデミー受験の為にウィーンへ上京という流れらすぃ…そしてここからヒトラーの五年強に及ぶウィーン滞在が始まるってか?

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2017年12月 8日 (金)

ふぉーすのちからじゃ?

トランプ大統領とダークサイドの逆襲  宮家邦彦  時事通信社

 サブタイトルは、宮家邦彦の国際深層リポートなんですが、うーん…そろそろトランプ大統領就任から一年が経とうとしてますが、つつがなきや、な訳あるかぁーっ(笑)でしょかねぇ…

 そんな中で、世界情勢は今どーなってけつかるねんとゆーのを、本書はインタビュー方式でかるーく語られているよーです。パンピーにも分かりやすく、実に平易なお言葉で(笑)なので、もー本書はそのまま読んで下せぇーの世界かな、と(笑)さほど厚い本でもないので、多分二時間もあれば余裕で読破できるんじゃまいか?

 まぁ文章量はたいした事はなくても、内容はぶっちぎりかもなぁ…まさに、おりゃー、もとい世界は、どーしたらええだぁーっ(エコー付)そのものかも?まっ著者的には、今更ジタバタしても状況が良くなる訳じゃなし、国際情勢というこの舵取りの難しい難題を、日本は間違ってはあきまへんえって事になるのだろか?うーん…

 まっ、神は死んだもとい、建前は死んだでしょか?でもって本音キタコレで、その本音が全員、自分ファーストごりおし一択ってとこかなぁ(笑)オレだけ良ければ全て良しってか(笑)でまぁ、力こそ全て来たぁーって、戦国時代か?ルール無用の悪党キタコレだけど、自分ルールが正義ですから無問題ってか…

 どーしてこーなったぁーっ?を紐解くと、世界が見えるじゃまいか?

 それが巡り巡って、去年の米大統領選の結果につながったとゆー事らすぃ…「差別主義的白人ポピュリストと既得権を代表する女性政治家との史上最低の大統領選」を米は大々的にやってみますたとな(笑)

 でまぁヒラリーが個人的にというか政治的に有能であったとしても、今の米でD.C.の不信感は天まで焦がす勢いだって事らすぃ(笑)よーするにワシントンの住人なんて、誰一人信用ならんわ、ボケみたいなノリ?国民にそっぽを向かれる政治をしてきたツケがキタコレとゆーのもあると思いますじゃね?

 そんな怒りの鉄拳が、トランプ大統領を生んだらすぃ…かくて、どっちが最高でしょー?ではなくて、どっちが最低でしょー?の選択って…米もそこまで来たか…

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2017年11月25日 (土)

農業土木?

神様の階段  今森光彦  偕成社

 所謂一つの写真集でしょか?それもインドネシアのバリ島の棚田の(笑)タイトルはそこからきているんですね、棚田とは神様の階段である、なるほろ、バリ島もお米を神聖視していらっさったんだなぁーと納得(笑)

 まぁとにかく、写真がメインですので、見て見てとしか言いよーがないよーな?百聞は一見に如かずとゆーのは、まさにこれの事じゃね?でもって、バリ島と言えば、言わずと知れた南の島ですから、青い海、青い空、白い雲に、緑の田んぼ田んぼ田んぼなんでございます。いやー、それだけで多分、癒される世界じゃね?

 でもって、勿論、バリ島にだって、森もあれば、川もあれば、山もあるでして、これがまぁ、何とゆーか、ザ・自然って感じといおーか、迫力が違いまんねんとゆー…ちなみに、バリ島で一番高い山はアグン山で、ちょっと見富士山に似ているよーなスタイルと言おーか(笑)日本でも富士山は神聖なお山ですけど、バリ島の人々も「神様のすむ神聖な場所としてたいせつにしてきた」そな…山岳信仰あると思いますなんだろか?

 そして本書メインの田んぼは、最早これはアートじゃねの世界が展開している模様…階段状になっている田んぼって、遠目に見ても、近くで見ても、びっくりーなんですよ、奥さん(誰?)

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2017年10月31日 (火)

結論なんて出ない旅の結論?

骸骨考  養老孟司  新潮社

 サブタイトルは、イタリア・ポルトガル・フランスを歩く、なんですが、前回に引き続き、お墓巡礼ツアーでしょか?どちらかとゆーと納骨堂巡りの方が正しいのか(笑)これが究極の死を思えなんだろーなぁと…でもって、欧州のお骨事情も、複雑怪奇でございましたなんだろか?

 結局、生死、人生観、死生観、共にどよ?って事かなぁ…「歴史の中では、身体は前に出たり、後ろに引っ込んだりする」そで、「身体が前に出るのは乱世で、背景に引くのが平和な都市の時代である」そな…でも、その変化もを「一度に変わるというものではない。いわば螺旋を描くように少しずつズレながら動いていく」のだそな…まぁ腹が減っては戦は出来ぬと、武士は食わねど高楊枝の間を気付かない内にシフトしているとゆー事だろか?

 でまぁ、著者は死というか、墓地というか、納骨堂というか、お骨の行方の現場にひたすら行ってみますたって事らすぃ…やっぱ事件は現場で起こっているんだぁーって事でしょか(笑)「ひたすら現場を歩いて、なにか出てくるのを待つ」「このやり方は、現代の学問とは違う。ちゃんとした科学の世界なら、研究には目的があり、方法があり、歴史がある」そな…「行ってみなければわからない。そこが面白いから行くのだが、これは学問とは認められない」となる訳で行き当たりばったりなんて、そんなの学問じゃねぇーって事になるらすぃ…フィールドワークって一体?

 で、結局、己の疑問は己で解決ってか?「意識が身体をどこまで、どう把握できるのか、それはわからない。だから実地に当たってみるしかない。身体の研究はつねに実地に戻ってしまう。身体は意識ではないのだから、当然であろう」って事になるらすぃ…何とゆーか、身体はどこまでも自然って事でFA?

 また、「世界は意識的にコントロールできる。そう思うことが意識の最悪の癖である。それを訂正するのは唯一、外界からの入力、つまり感覚である」じゃね(笑)

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2017年10月29日 (日)

あの雲はなっぜー?

アルプスの印象  福田耿之介  アドミックス

 福田耿之介写真集とあるよーに、所謂一つの写真集と思われなんですが、アルプス…本場のスイスアルプスは、こー写真で見ると迫力あるというか、ゴツい感じがするのは気のせいか?えーと、山もあそこまで行くと、岩山なんですよね…当たり前ですけど…マジで、雪よ岩よの世界だったんだと納得しますた(笑)

 人間、山派と海派に分けるのならば、どちらかとゆーと海派の人間なので、こー山山山な画像キタコレには、素直におおっとゆーしかないよーな?個人的には、非日常的な光景なので?これを毎日拝んでいるスイスの人達は、どーなんだろぉ?当たり前の風景なんでしょかねぇ?何かもーこちらは迫力に圧倒されてしまうんですが(笑)

 さて、こちら写真家というか、プロが撮った写真じゃなくて、ただのスイスアルプス好きの愛好家が撮影してきた写真だそで、撮影時には表に出すつもりはあまりなかった模様…なので、ブロから見るとそゆのが分かるらしーのですが、トーシロから見る分には、遜色ないとゆーか、物凄く綺麗に撮れていると思うんですけど?一枚一枚絵葉書にしても大丈夫だと思われ?じゃね?

 てゆー事で、実にふつくしい写真集です。まぁ写真集なんで、もーこれは四の五を言わず、まずは見て見ての世界だよなぁと(笑)

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2017年10月28日 (土)

鳥や雲や夢さえも掴もうとしている?

須賀敦子のフランス  文・稲葉由紀子 写真・稲葉宏爾  河出書房新社

 前の三冊と著者が違うので、多少雰囲気が違うかなぁ?かなぁ?ですが、デザインが同じなので、見た目はそっくりってか(笑)何とゆーか、須賀敦子のヨーロッパって、仏と伊で、伊が居住の場としたら、仏は旅人の場かなぁ?はーるばる来たぜ、西欧ってな感じの?

 なので、本書は須賀敦子の仏での思い出の地巡りみたいなノリのよーな気がする?住んでいたとゆーよりも、訪れたみたいな?この感覚の違いは大きいよーな気がするのは気のせいか?

 例えば、「一九五四年六月半ばの金曜日、須賀敦子はシャルトルに向かう学生の巡礼の列にいた。パリ・モンパルナス駅を前々夜に発ち、ランブイユ駅で仮眠したのち、四十キロの道程を二日かけて歩きとおす。信仰について討論を重ねながら、ボース平野の麦畑を進む巡礼の旅」とゆーシャルトル大聖堂キタコレとか…

 そしてもう一度、「十七年後の一九七一年七月、須賀敦子はまた、このシャルトルのカテドラルを訪れた。ペッピーノの死後、四年暮らしたミラノを引き払い、日本に帰国することを決心。車でフランスに入り、各地のエマウスをまわって、国際ワークキャンプに参加する。その旅の途中でシャルトルに立ち寄っている」そな…

 ちなみに今でしょ(死語?)の学生たちのシャルトル巡礼は、「現在も続いている」そーなんですが、「三万人と書かれていた参加者数は、いまははるかに減って四千人程度。それも、当時のようなカトリック左派を中心にした学生たちは姿を消し、また一方では、伝統主義的で保守的な、いわゆる原理主義系グループが分裂して別の日に巡礼を行うようになり、往時の盛り上がりは見られなくなってしまった。巡礼の時期も、三月の「枝の主日」の週末にと変わっている」のだそな…何とゆーか、カトリック内にも右やら左やらあったのか?でもって分裂…派閥?派閥なのか?

 まぁ変わったのはそれだけではなくて、現地そのものも変化している模様で、「五十年の歳月は、フランスの穀倉といわれるボース平野さえも遠慮なく浸食しているようだ」ですしおすし…

 そんな中たどり着いたシャルトル大聖堂は、「二つの塔が空に屹立していた。左には、レースのような装飾に覆われたゴシック様式の「新塔」。右には、それよりすこし低い、飾りのない素朴なロマネスク様式の「旧塔」。二つの塔の異なるリズムをがっちりと抱きとめる、力強いファサード。そしてそのみごとな均衡の主軸となっているのが、中央のばら窓と「王たちの扉口」だ」そな…どれだけの月日が流れよーと大聖堂はそこにあるってか(笑)

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2017年10月26日 (木)

百年?二百年?五百年?千年?

図説 ヨーロッパの王朝  加藤雅彦  河出書房新社

 欧州というと王様がいぱーいなイメージでいたら、今でしょ(死語?)では「イギリスほか数ヵ国」なんだそな…でも一昔前の「二〇世紀初頭のヨーロッパでは、フランスとスイス、そしてイタリア山中の小国サンマリノを除けば、すべての国が君主制をとっていた」って、ホンマでっかぁーっ?とゆー訳で、今は共和国名乗ってますの国々も、元は王様の国だものだったゆー事らすぃ…欧州パネェ…とゆー事は、世界史というか、欧州史って、王制の歴史なのか?もしかして?

 そんな訳で、本書は独、墺、仏、西、伊、英、北欧、露、バルカンとベネルクスの王家についてのエトセトラかなぁ…G8の方の王家と歴史については世界史で一度は見た事があるよーな気がするが、その他の国々のはどーなんだろぉ?と例えば、ベネルクスってどよ?

 「九世紀にフランク王国が、東西フランクと中間のロタリンギアに三分裂し、さらにロタリンギアが東西フランクに分割されたとき、その北部のネーデルランドも二分割された」そで、その後「ネーデルランドは、それぞれ東西の支配下に入るが、東西の辺境に位置し、いわば「はざま」的性格が強かったこの地域には、多くの自立的な侯国が誕生した」とゆー事らすぃ…

 そして「一五世紀になると、ネーデルランドの大部分はブルゴーニュ(ブルグンド)公国の領有下に入る。ブルゴーニュ家は、もともとフランス王のカペー家から血を分けている」そな…

 そんな中、「一四七七年、ブルグンド家の一人娘マリアがハプスブルク家に嫁いで、ネーデルランドはハプスブルク家の所領に帰した」とな…でもって1558年「ハプスブルク家の皇帝カール五世(カルロス一世としてスペイン王を兼ねる)が退位すると、同家はオーストリア系とスペイン系に分かれ、ネーデルランドはスペインの領有するところとなる」そな…

 そして次代のフェリペ二世の時、「リベラルな気風の強い北部(オランダ)で、ナッサウ=オラニエ家を中心にして反乱が起きた」とゆー事らすぃ…こちらの詳細は本書をドゾ。かくて「北部七州は一六〇九年、「オランダ連邦共和国」として事実上独立した」とな…

 そして「一七九五年にフランスの共和制を範とする「バタヴィア共和国」が、従来の総督制共和国にとって代わり、さらにナポレオンが登場すると、彼の弟ルイを国王とする「オランダ王国」が一八〇六年に樹立された。そして最終的にオランダはフランスに併合されてしまう」とな…

 そしてナポレオン失脚の後、「イギリスに亡命していた共和国総督の息子ウィレムが帰国し、一八一五年に「ネーデルランド王国」初代国王ウィレム一世として即位した。今日のオランダ王朝のはじまりである」そな…で、この時、南部(ベルギー)を含み、更に「オランダ国王はルクセンブルク大公を兼ねることになった」そな…「一八一四-一五年のウィーン会議で行われたこれらの決定は、ナポレオン時代の苦い経験から、オランダを強化してフランスの再侵攻を阻止しようという列強の意図から出たものであった」とな…

 でも「オランダ国王ウィレム一世の差別的支配への不満は、一八三〇年にパリで七月革命が成功するとたちまちベルギーに波及し、独立を要求する反乱になって爆発した」そな…

 かくて1830年ロンドン会議で、「ベルギーの独立を承認し、さらに第二回ロンドン会議では、ベルギーを永世中立国とすることを決定した」そな…

 そして「王制を独立の条件とされたベルギー議会は、最初フランス王ルイ・フィリップの次男ヌムール公を初代国王に望んだが、フランスを警戒する列強に容れられず、一八三一年、ドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ公国からレオポルド一世を迎えることを承認した」となりますた…

 ルクセンブルクの方は、「ウィーン会議で大公国として独立を承認されたものの、ルクセンブルク大公位はオランダ王が兼ねていた」そで…でも「第三代国王ウィレム三世が一八九〇年に男子の世継ぎがないまま他界すると、オランダでは以後三代にわたる女王の時代を迎えることになる」そな…

 だが待って欲しい(笑)「ルクセンブルク大公国では、「サリカ法典」により女子の大公位継承権を認めていなかったため、オランダ国王がルクセンブルク大公位を兼ねることは不可能になった」とな…

 そゆ事で「一八九〇年、ナッサウ家のアドルフ一世が引き継ぐことになり、ルクセンブルク大公国はオランダ国王の支配から解放され、名実ともに独立を達成することになった」そな…そして「一八六七年にルクセンブルクはベルギーと同様、永世中立国としての保障が外国より与えられた」とな…

 そんなルクセンブルクですが、ヴィルヘルム四世に男子の世継ぎがなく、「女子の継承権を可能とする法改正が行われて、一九一二年に」マリー・アデライドが一八歳で即位したとな…

 WWⅠ後、「彼女の親独的態度が国民から非難を浴び、彼女は一九一九年に退位して妹のシャルロットに大公位を譲った」そな…またベルギーの「第四代国王レオポルド三世は、第二次大戦でドイツ軍に降伏したため、戦後退位に追い込まれた」そな…ちなみに「先王のアルベール一世は、第一次大戦ではベルギー軍を率いてドイツ軍とたたかい、国民から「騎士王」とあがめられた」そで…まぁともかく、ベルギーではボードゥアン一世に譲位されたとゆー事らすぃ…

 そして三国の王家は今でしょ(死語?)に続いているとゆー事らすぃ…いやまぁ何とゆーか、ベネルクスの歴史も半端ねぇーでございます…

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2017年10月24日 (火)

ローマの昔日?

須賀敦子のローマ  文・写真 大竹昭子  河出書房新社

 ミラノ、ヴェネツィアと来て、ローマ到達だろか?須賀敦子の欧州とは、仏と伊とゆー事で、特に伊は住んでいた期間が一番長いところだもんなぁ…縁があるとなれば、伊でしょか?

 須賀敦子の遍歴としては、「パリで二年間留学して帰国。しばらくは日本放送協会国際局に勤務するが、一九五八年、ふたたび日本を離れる決意をする。行き先は今度はパリではなくローマで、半年たらずで三十歳をむかえる初秋のころ、この街に到着した」そな…

 そして「ローマに来てすぐ、須賀は留学を斡旋したカトリック団体から半ば強制的にあてがわれたイタリア人の修道女が経営する郊外の学生寮に入った。だが、そこは規則ずくめで居心地が悪く、一か月いただけで、知り合いの神父が紹介してくれたテルミニ駅の近くの寮に移ったのだった」で、ローマの拠点はここになるとゆー事らすぃ…

 大まかな流れとしては、「フランスにいたころ、夏休みのあいだペルージャでイタリア語の講習を受けたことが、須賀がこの国に興味をもったきっかけだった。ローマに留学し、そこでコルシア書店の活動を知ってミラノに移り、書店のメンバーと結婚し、個人誌を発行し、日本文学の翻訳という仕事をなしとげた。そうした仕事を土台にして作家須賀敦子が誕生したのである」ですしおすし(笑)

 でもって、そのローマは、「街そのものが作家の思索の変遷にかかわっており、都市と建築物、その底に流れるヨーロッパの思想などが深く掘り下げられている」そで、「ローマは、フランスで得られなかったものを探しもとめたイタリア暮らしの出発点であり、晩年になって意識して自らを振り返った場所だった」となるらすぃ…

 そゆ背景からか、「留学時代に書かれた文章は、なにかを目指して燃えている明るい勢いにあふれている。屈託がなく、楽天的で、影を感じさせない。三十数年後に書かれた文章は、もっと陰影が深く、すべての出来事を静かに見据える深い視線につらぬかれている。理想は描かれず、さまざまな声が共鳴するポリフォニックな響きだけが聞こえてくる」に変化しているらすぃ…経験は人を育てるって奴でしょか?うーん?

 そのローマ、本書では、名所案内というか、観光地巡りというか、登場する場所が、どこかそゆとことつながっている感じがするのは気のせいか?というより、ローマにあるものは皆、必ず曰く因縁の歴史ありのよな(笑)

 例えば、須賀敦子が通ったとされるサンタンセルモ教会とか…「サンタンセルモもベネディクト派修道会の教会で、数多いローマの教会のなかでも「典礼の諸儀式の厳格さとグレゴリアン聖歌の美しさ」で知られているという。建物は比較的新しく、こぢんまりとしていて、なにも特別なところがないその「ふつうさ」に安堵感を覚えた」とゆーよーなとこらすぃ…

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2017年10月15日 (日)

水の都の島々にて?

須賀敦子のヴェネツィア  大竹昭子・文・写真  河出書房新社

 ミラノに続くヴェネツィア編なんですが、ミラノが生活空間としたら、ヴェネツィアは旅先とゆー事になるのだろーか?メインは、ミラノ生活の最晩年辺りにヴェネツィアに行きましたとゆー話らすぃ…でもって、その頃須賀敦子は、夫と祖母と父を立て続けに亡くした心身ともにキタコレ状態で、またコルシア書店の方も時代の波にのみこまれて翻弄されている時、更に国際社会での日本があまりに米よりで評価がた落ちとゆー、海外にいる日本人にとっては相当に生き辛い時だったらすぃ…

 「夫を亡くした翌年の冬、ミラノから日帰りで訪ねたのが、その後も長くつづく須賀敦子とヴェネツィアとの出会いだったのだ。ヴェネツィアは夫が「きっといつか僕が連れて行くと約束した場所のひとつ」だったが、それを果たせないまま彼が亡くなったあと、書店の主催する講演会で知り合った生粋のヴェネツィアっ子に誘われて、島で短い一日を過ごしたのだった」そで、何とゆーか、癒しとゆーか、再生の土地みたいなノリになるだろーか?須賀敦子的に?

 そして、そんなヴェネツィアへの追想の旅が始まるって事でしょか?

 とはいえ、須賀敦子も初めての訪問時には、ヴェネツィアの魅力を即座に把握できなかったそーで、その後何度も訪れる内に知る事になるとな…「なにごとを理解するにも時間をかけるのが須賀敦子のやり方だった。いや、かけるんじゃなくて、かかってしまうのよ、と主張する声が聞こえてきそうだが、知識で理解するのではなく、対象の前に素の状態で立ち、感じたものかを手掛かりに肉体的に受容しようとつとめた」そで、だからガイドブックも読まないタイプだったらすぃ…「知識は他人が開拓したものだが、感覚は自分だけのものであり、感覚の地図が描けたときにはじめて知識が生き、対象が自分のものになるのだった」とゆーのが須賀敦子流の生き方らすぃ…

 もしや須賀敦子って、考えるな、感じよのお人だったんだろか(笑)

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